二〇〇六年の盆休み。あの夜のことを思い出すと、今でも喉の奥がヒュッと冷える。
俺の家系では、盆の間は海にも山にも近づくな、という決まりがあった。理由はよくわからない。けれど、小さな頃から、盆に外で遊び回るようなことは許されなかった。特に年寄り連中は目の色を変えて止めにくる。昔、二つ上の先輩が山に入ったってだけで、祖父に髪の毛掴まれて地面に叩きつけられてるのを見た。あれで刷り込まれた。盆は何かがいる時期なんだ、と。
だけど、市内の高校に進学して世界が広がると、衝撃だった。クラスメイトたちは当たり前のように、盆に泳ぎに行ったり、キャンプしたりしてたんだ。あれ?迷信だったんじゃないか?って思った瞬間、自分が馬鹿みたいに思えてさ。
友人から盆の真っ只中にキャンプの誘いが来た。メールの文面が浮かぶ。「海行こうぜ!テント張って夜はバーベキュー!肝試しもしようぜ!」……気付いた時には『OK』って返信してた。
親には「市内の友達の家でバーベキューして終電で帰る」と嘘をついた。どうせ父も母も晩酌で迎えに来ない。うまくやれると思った。
当日、友人の兄貴が車を出してくれて、五人でキャンプ場へ向かった。海辺の町営キャンプ場だった。テントを張って、浮かれて、海に入った。……その瞬間から、おかしなことは始まってたのかもしれない。
波の合間に、どう見ても髪の毛みたいな長い海藻が浮かんでいた。首だけ出して海の中で立ってるようなオッサンが、急にもぐって、二度と浮かんでこなかった。気味が悪かったが、誰も話題にはしなかった。写真を撮ったとき、全員の膝に顔のようなものが写っていた。俺の顔は真っ青だったらしい。
夕方五時。バーベキューをしながら、誰ともなく「この後どうする?」って話になった。もちろん、肝試しが始まった。
行き先は、山中にある神社。大学生の間では有名な心霊スポットらしく、友人の兄は妙にテンション高かった。「マジで出るらしい」「前に走り屋が変死してる」なんて話をしながら、俺たちは車に乗り込んだ。
道中、信じられないことが連続した。オートマの車が急にエンストしたり、一本道なのに前方に懐中電灯の光が見えたのに、すれ違う相手がいなかったり……街灯が突然全部消えたり。
でもなぜか、俺たちはそれを恐れなかった。というか、変な高揚感があった。頭の芯がしびれるような、無意味な笑いがこみ上げてくる。怖いんじゃない、でも楽しいわけでもない。ただ、気持ちがどんどん逸脱していくのがわかった。
神社に着いたのは、夜十時すぎだったと思う。鳥居をくぐった瞬間、全員が勝手にばらばらに動き出した。俺は境内の片隅で、小さな池の淵にしゃがんだ。涙が止まらなかった。笑いながら泣いていた。
「ぅお〜い!きて〜〜!!」
境内の中央で、友人の兄が縄を持って叫んでいた。その声が、頭に突き刺さるようだった。無性に嫌になった。あれほど楽しかったのに、急に憂鬱と倦怠が押し寄せた。
近づくと、兄は縄を嬉しそうに振り回していた。皆すすり泣いていた。俺は、どうして自分が涙を流しているのか分からなかった。ただ、逃げたかった。
その瞬間、俺の携帯から大音量でアラームが鳴った。親に電話しなければいけない時間だった。ビクリとして尻もちをついた。隣にいた友人も腰を抜かしてた。空気が一瞬で変わった。俺たちは正気に戻り、兄を無理やり連れて駐車場に戻った。
兄はずっと「もう一回行こう」って繰り返していた。ファミレスに移動した時も、それをやめなかった。演技だったとかふざけたことを言っていたが、弟の腕には爪の痕が深く残っていた。誰も、もう彼の言葉を信じなかった。
それでも夜が明けると、兄はケロリとした顔で、「記憶がない」「でもすごく幸せだった」と言った。
縄を拾ってからのことはよく覚えていないらしい。達成感と、幸福感だけが残っていたという。
俺たちはお寺に行き、お祓いを受けた。
俺も帰宅後、祖父母にこっぴどく叱られた。
特に祖母の怒り方は尋常じゃなかった。理由を問うと、祖母は小さくうなずき、「明日、朝一でお寺に行きなさい」とだけ言った。
爺ちゃんに、「なんで盆に海や山に近づいたらいけないの?」と聞いた。
爺ちゃんは、「昔からの決まりじゃ。理由はもう忘れた」と言った。
ただ、「山や海の神様とは別の存在と揉めたことがあったらしい」とだけ……。
迷信だと思っていたそのルールが、俺たちを守ってくれていたのかもしれない。
あの十一時のアラームが鳴らなかったら、俺たちは、きっとあの縄に……。
今は大学生になった。あの友人の兄も、普通に結婚して暮らしているらしい。
けれど、夏が来るたび、思い出す。鳥居の前で、あの笑い声を上げながら、俺たちは一体、何に近づいてしまったのだろうと。
あの笑いは、俺たちのものじゃなかった。
(了)
[出典:879 :2010/09/17(金) 19:11:36 ID:dJ+Cl42o0]