私は編集者をしている。
といっても華やかな雑誌や作家を抱えるような仕事ではなく、地域のイベントや飲食店を紹介する小さな情報誌だ。記事は読者から寄せられる情報を元にしたり、店側からの依頼を受けたり、時にはこちらからお願いすることもある。基準は単純で、面白そうか、書けそうか、それだけ。気まぐれな舌と、なんとなくの直感が私の指針だ。
締め切り明けの午後、編集部は嘘みたいに静まり返っていた。ほとんどの同僚が遊びや営業に出てしまい、机の並んだフロアには私ひとり。することもなく、投げ出された郵便物の山を眺めていたとき、奇妙な封筒を見つけた。
封を切ると、便せんと写真が一枚。写真には煤けた木造の和菓子屋が写っていた。看板は達筆だが、どこか古びて歪んでいる。便せんの文字は汚い。インクがにじんで掠れており、まともに読めるのはただひとこと。
「おいしいですよ ぜひ来てください」
それだけだ。店の説明も名前もない。雑な字に、不気味なほどの無表情さを感じた。だが、奇妙なものほど暇を潰すにはちょうどよい。私は何も調べず、ただ住所だけを頼りに出かけることにした。
車で一時間ほど走り、目的の地域に着いた。大きなスーパーに車を停め、写真を片手に歩き回る。だが住宅ばかりで、和菓子屋らしいものは見当たらない。あの煤けた外観と、この穏やかな住宅街はどうしても結びつかなかった。
路地へ逸れたとき、不意に一軒の家が目に入った。庭は荒れ放題、雨戸は閉ざされ、空気は湿気で重い。空き家に違いなかった。目を逸らそうとした瞬間、背筋に氷を垂らされたような感覚が走った。視線だ。
顔を上げると、二階の窓だけ雨戸が開いていた。暗い室内から、何かが覗いていた気がした。影か、人か……。確かめる勇気はなく、私は足早にそこを離れた。
商店街に出て、喉を潤すため雑貨屋に入った。ついでに写真を見せ、店主に尋ねた。
「これ、どこかでご存知ですか」
老人はじっと写真を睨み、やがてぽつりと答えた。
「……かどまんさんとこだな」
「ご存知なんですか?」
「ああ。だが、おかしいぞ。十年くらい前に火事で焼けて、店ごとなくなったはずだ。主人も女房も子どもも、みんな中で焼け死んじまった」
耳鳴りのように心臓が鳴った。私は喉を詰まらせつつ訊いた。
「今は……その場所、どうなっていますか」
「火事のあと新しい家が建ったが、引っ越してきた家族も長くせず出ていったよ。いまは空き家だ」
その言葉を聞いた瞬間、脳裏にあの家が蘇った。二階の窓、開いた雨戸、感じた視線……。私は礼を言い、逃げるように編集部へ戻った。
戻るなり編集長に封筒を見せようと鞄を漁ったが、どこにもない。机にも車内にも見当たらなかった。紛失した、としか思えなかった。落としたのだろうか。
編集長は黙って私の話を聞き、最後にぽつりと言った。
「……多分もう出てこないよ」
「どうしてですか」
「五、六年前、同じことがあったんだ。俺の先輩が似たような封筒を受け取って、出掛けていった。『横町の和菓子屋に取材してくる』って言ってな。そのまま帰ってこなかった」
「帰ってこなかった……?」
「先輩も車も、影も形もない。大騒ぎになったが、結局見つからなかった。封筒の中身は俺も見たよ。やっぱり汚い字で、『きてください』とだけ書いてあった」
背筋が粟立った。編集長の声が、遠くから響いてくるように聞こえた。私が手にした便せんも、同じだった。
それから三年が過ぎた。私はまだ編集者を続けている。表向きは変わらない生活だ。だが郵便受けを開けるたびに、心臓が小さく跳ねる。あの封筒が、また届くのではないかと。
写真の中の店はもう存在しないはずなのに、私を呼ぶ声はまだ終わっていない気がする。あの視線を思い出すたび、皮膚の裏から冷気が這い上がってくる。
次に呼ばれたとき、私は戻ってこられるのだろうか。
――そう考えるだけで、胸が詰まる。
(了)