今でも、真夏の昼下がりにアスファルトが焦げるような匂いを嗅ぐと、ふいにあの日の記憶が蘇り、胸の奥がざわざわと泡立つような感覚に襲われる。
あれから四十年近くが経った今、私は東京の乾いた空調の中で暮らしているが、記憶の中の私はまだ、あの湿った海風が吹き抜ける離島にいる。
私の実家があるその島は、どこへ行っても潮の香りがへばりついてくるような場所だった。
島の地形はすり鉢を伏せたように中央が隆起しており、海岸線を走る県道から一歩山側へ踏み込めば、すぐに鬱蒼とした照葉樹林が視界を覆う。
問題の場所は、集落の外れにあった。海沿いの県道から、唐突に山腹へと切り込むように伸びる、コンクリート舗装の脇道だ。
地元では「農道」と呼ばれていたが、実際にはみかん畑の手入れをする軽トラックが一台、ようやく通れるかどうかの急勾配である。
子供の足ではアキレス腱が伸びきってしまうほどの坂道で、舗装されているとはいえ、その表面は粗く、滑り止めのための丸い窪みが無数に刻まれていた。
その日は、盆休みで帰省していた親戚の「ヨーコ姉ちゃん」と、三つ上の兄、そして保育園児だった私の三人で散歩に出ていた。
ヨーコ姉ちゃんは当時高校生で、島の子にはない都会的な洗練された雰囲気を纏っており、私と兄にとっては憧れの保護者だった。彼女が履いていた白いサンダルと、そこから伸びる白い足首が、島の濃すぎる緑の中で異様に眩しかったのを覚えている。
「ねえ、この道、どこまで続いてるのかなあ」
ヨーコ姉ちゃんが、汗を拭いながらその坂道を指差した。
太陽は真上にあり、影という影が足元に小さく濃く凝縮されている時間帯だ。蝉の鳴き声が耳鳴りのように空間を埋め尽くし、思考力が暑さで麻痺していた私たちは、ただなんとなく、その提案に乗った。
普段なら子供だけで入ってはいけないと言われている場所だが、高校生の姉ちゃんがいるという万能感が、私たちの警戒心を薄めていたのだと思う。
坂道に入ると、空気が変わった。
海からの風が遮断され、熱気が澱んでいる。道の両脇からは、シダや葛のツルが生き物のようにせり出し、コンクリートの白さを侵食しようとしていた。
私の視線は、自分の足元と、前を歩く兄の背中、そしてその少し先を行くヨーコ姉ちゃんの白いサンダルを行き来していた。
自分の心臓の音が、蝉時雨に混じってドク、ドク、と耳の奥で響く。
坂がきつい。ふくらはぎが熱い。
それでも私たちは、何かに引き寄せられるように、無言でその道を登り続けた。
異変に気付いたのは、先頭を歩いていたヨーコ姉ちゃんだった。
「……あれ?」
彼女の足が止まる。
つられるように兄が止まり、一番後ろを歩いていた私も、兄の背中に鼻先をぶつけるようにして立ち止まった。
「どうしたの?」
兄が尋ねる。
姉ちゃんは答えず、ただ足元のコンクリートを凝視していた。
そこは、急な坂道の途中で、珍しく少しだけ平坦になっている箇所だった。
木漏れ日がまだら模様を描く灰色の路面に、黒い染みのようなものが落ちている。
私は兄の脇から顔を出して、それを覗き込んだ。
それは「染み」ではなかった。
水で濡れたような、あるいは油を含んだ泥でスタンプを押したような、明らかな「痕跡」だった。
一見して、それが足跡であることはわかった。
だが、子供心にも瞬時に理解できる「異常」があった。
「でかい……」
兄が呟く。
私も息を飲んだ。
その足跡は、私の履いていた運動靴の優に三倍はあった。
大人の男の人の足でも、これほど大きくはないだろう。三十センチ、いや、四十センチ近くあったかもしれない。
形は人間のそれに似ていた。踵があり、土踏まずがあり、指がある。
しかし、それは絶対に人間のものではなかった。
私たちは顔を見合わせた。
誰かが悪戯で描いたものだろうか?
だが、ここは集落から離れた山道だ。こんな急坂を、わざわざペンキや墨汁を持って登ってくる人間がいるだろうか。それに、その跡は描かれたものではなく、そこに何らかの質量を持った「何か」が、強く押し付けられた結果として残っているように見えた。
濡れているようにも見えたが、触れてみると乾いているような、奇妙な質感だった。
「ねえ、これ」
ヨーコ姉ちゃんが、震える指先でその足跡の先端を指し示した。
「指、多くない?」
言われて、私はその「指」に当たる部分を数えた。
親指のような太い突起から、小指の方へ向かって。
いち、に、さん、し……。
背筋に、冷たいものが走る。
本来なら五本で終わるはずの指が、まだ続いていた。
……ご、ろく、しち、はち。
八本。
間違いなく、八本あった。
扇状に広がったその指は、人間の手足というよりは、何かの根菜か、あるいは深海に棲む軟体動物の触手のように、グロテスクに路面を掴んでいた。
「八本、ある」
兄の声が上擦った。
「なんだこれ、妖怪か?」
兄は強がってそう言ったが、その顔からは血の気が引いていた。
島には古い伝承がいくつもあったが、こんな「八本指の巨人」の話など聞いたことがない。
風が止んだ気がした。
蝉の声さえ、一瞬遠のいたように感じられた。
山全体の空気が、急に質量を増して、私たちにのしかかってくるような圧迫感。
逃げ出したかった。今すぐ踵を返して、海が見える場所まで駆け下りたかった。
しかし、恐怖と同じくらいの強烈な好奇心が、私の足をその場に縫い止めていた。
「他にもあるかも」
ヨーコ姉ちゃんが、憑かれたような低い声で言った。
彼女の視線は、坂の上の方へと向けられている。
私たちは、見えない糸に引かれるようにして、その先を目で追った。
一つ目の足跡から、坂の上に向かって数メートル先。
そこに、二つ目があった。
私たちは無言のまま、そこへ近づいた。
「……また、右だ」
兄が言った。
一つ目の足跡は、親指(と思われる太い指)が左側にあり、右足のものだった。
そして、二つ目の足跡もまた、同じ向きに親指がついていた。
右足だ。
しかも、一つ目と二つ目の間隔が異常だった。
私の歩幅で測るまでもなく、それは二メートル、いや三メートル近く離れていた。
人間の歩幅ではない。走っていたとしても、こんな急な登り坂で、これほどの距離を跳躍できるはずがない。
しかも、その間には左足の跡がないのだ。
まるで、片足だけで、三メートルの距離を「ケンケン」で跳ね上がったかのように。
想像してしまった。
四十センチ近い巨大な八本指の足を持つ何かが、片足だけで、この急坂を音もなく跳ね上がっていく姿を。
それはどんなバランスで立っているのか。
膝はあるのか。
上半身はどうなっているのか。
頭上に覆いかぶさる木々の隙間から、誰かが私たちを見下ろしているのではないか。
急に、背後の茂みがガサリと揺れた気がして、私はビクリと肩を震わせた。ただの風だったかもしれないが、もう身体中の感覚器が過敏になりすぎて、自分の服が肌に擦れる音にさえ恐怖を感じていた。
「三つ目」
ヨーコ姉ちゃんが、さらに先を指差す。
やはり、三メートルほど先に、同じ黒い跡があった。
近づいて確認する。
右足。八本の指。
コンクリートの表面の微細な凹凸に、その黒い何かがめり込んでいる。
もしこれが悪戯なら、相当に手の込んだ、そして悪趣味な悪戯だ。
だが、直感が告げていた。これは悪戯ではない。
ここに「居た」のだ。
「四つ目は?」
私が震える声で聞いた。
視線だけで坂の上を探る。
あった。
さらに三メートルほど先。
カーブミラーが設置されている急な曲がり角の手前に、四つ目の足跡があった。
私たちは、身を寄せ合うようにしてそこへ向かった。
四つ目の足跡も、やはり右足で、やはり八本の指があった。
そして、その先には――。
何もなかった。
足跡は、そこで唐突に途絶えていた。
四つ目の足跡の先は、まだコンクリートの坂道が続いている。
しかし、五つ目の足跡はどこにもなかった。
左側の山肌は切り立った崖になっており、登れるような足場はない。
右側はガードレールがあり、その下は鬱蒼とした竹林が谷底へ向かって落ち込んでいる。
もし、ここから脇へ逸れたのなら、草木が踏み荒らされた跡や、ガードレールに泥がついた跡があるはずだ。
しかし、周囲には何の痕跡もなかった。
その「何か」は、四歩目を踏み込んだ地点から、空へ向かって飛び立ったか、あるいはその場で蒸発してしまったかのように、忽然と消えていたのだ。
「……消えた」
兄が呟く。
「これ、ケンケンしてたうんじゃないかも」
ヨーコ姉ちゃんが、奇妙なことを言い出した。
彼女は四つ目の足跡の横にしゃがみ込み、自分の白い顔をその黒い痕跡に近づけていた。
「見て。踵の部分が深くて、指先の方が浅い」
言われて見ると、確かにそう見えた。
「登ってたんじゃない。……降りてきてたんじゃない?」
姉ちゃんの言葉に、私は混乱した。
足跡の爪先は、明らかに山の上を向いている。
人間が山を登る時、爪先は上を向く。降りる時は、爪先は下を向くはずだ。
「違うの。向きは上を向いてるけど、力がかかってるのは踵なの。つまり、後ろ向きに、猛スピードで山を駆け下りてきたか……あるいは」
彼女は言葉を濁した。
後ろ向きに、片足だけで、三メートルごとの跳躍を繰り返して、山を降りてきた?
そんな動きをする生物が、この世に存在するのか。
それとも、「降りてきた」のではなく、「引きずり込まれていた」のか?
見えない巨大な力に足を掴まれ、山の上へと引きずり上げられていたとしたら?
いや、それなら引きずった線が残るはずだ。
これは、断続的な「点」だ。
「帰ろう」
兄が短く言った。その声は、拒絶の色を帯びていた。
「これ以上、見ちゃいけない気がする」
私は兄の意見に全力で頷いた。
好奇心は、底知れぬ恐怖によって完全に塗り潰されていた。
私たちは、背中を見せるのが怖くて、何度も後ろを振り返りながら、その坂道を降りた。
四つの、巨大な、右足だけの、八本指の跡。
それらが、熱せられた空気の中でゆらゆらと揺らめきながら、私たちを見送っているように見えた。
家に帰り着くまで、誰も口をきかなかった。
実家の玄関に入り、冷えた麦茶を飲んでようやく、私たちは「生きた心地」を取り戻した。
その後、大人たちにこの話をしようか迷ったが、結局しなかった。
言ったところで信じてもらえないだろうという予感と、口に出すことで、あの「何か」を家に招き入れてしまうのではないかという迷信めいた恐怖があったからだ。
その夜、私は熱を出して寝込んだ。
夢の中で、私は片足で跳ねながら、終わりのない坂道を登り続けていた。自分の右足の指が、一本、また一本と増えていくのを、泣きながら数えていた。
あれから四十年。
私は就職を機に島を離れ、今は都会でサラリーマンをしている。
兄も島を出て別の県で暮らしており、ヨーコ姉ちゃんは結婚して、今は孫もいるという。
たまに法事などで顔を合わせると、酒の席で決まってこの「八本指の足跡」の話が出る。
「あれは本当に怖かった」
「子供の記憶違いじゃないよな、三人とも覚えてるんだから」
「結局、あれは何だったんだろうね」
そんなふうに、懐かしい怪談として消費することで、私たちはあの日の恐怖を過去のものとして処理していた。
先日、ふとあの場所がどうなっているのか気になり、パソコンを開いてグーグルマップを立ち上げた。
ストリートビュー機能を使えば、遠く離れた故郷の景色もすぐに見ることができる。
画面の中で、私は故郷の海岸線を走り、あの「農道」の入り口を探した。
記憶通りの場所に、その入り口はあった。
しかし、そこはもう「道」ではなかった。
かつてコンクリートで舗装されていたはずの入り口は、強烈な生命力を持つ雑草と灌木に完全に覆い尽くされ、緑色の壁となっていた。
「もう、誰も通ってないのか……」
画面上の矢印をクリックして、少しでも奥へ進めないか試してみたが、カメラ車はそこへ入っていなかったようで、画像は県道からの視点のみで止まっていた。
私はモニターを凝視した。
粗い画質の緑の隙間に、あのコンクリートの白さが残っていないか。
四十年という歳月は、人工物を自然に還すには十分な時間だ。
道自体がなくなってしまったのなら、あの足跡もまた、苔の下に眠っているのだろう。
そう思ってブラウザを閉じようとした時、私の手元のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、従姉妹のヨーコ姉ちゃんからだった。
珍しい。こんな平日の夜に。
「もしもし、姉ちゃん? 久しぶり」
『あ、ケンちゃん? ごめんね夜分に。ちょっと聞きたいことがあって』
受話器の向こうの声は、妙に落ち着きがなく、早口だった。
『今、タカシ(兄の名前)と電話で話してたんだけどね。例の話、してたのよ。足跡の話』
「ああ、あの八本指の」
私は苦笑しながら応じた。
「さっき僕も、ちょうどストリートビューでその場所を見てたところだよ。もう道がなくなっててさ」
『……ねえ、ケンちゃん。あの足跡、全部でいくつあったか覚えてる?』
唐突な質問だった。
「いくつって、四つだよ。右足が四つ。それで途切れてた」
私は即答した。あの光景は脳裏に焼き付いている。
『そう、だよね……。四つ、だよね』
姉ちゃんの声が震えているのがわかった。
「兄貴は何て?」
『タカシも四つだって言うの。私も四つだと思ってた。……でもね、さっき古い日記が出てきて、あの日付けのページを読み返してみたのよ』
「日記?」
『私、高校生の時、毎日日記つけてたじゃない。そこに書いてあったの。……足跡は「三つ」だったって』
「え?」
私は眉をひそめた。
「いやいや、四つだよ。間違いなく。四つ目で消えてたんだから」
『そう、日記にもそう書いてあるの。「三つ目で消えていた」って。でも、私たち三人の記憶の中では、なぜか「四つ」になってる。タカシも絶対四つだ、四つ目のところで引き返したって言い張るの』
背中がぞわりとした。
記憶の齟齬。
だが、三つだろうが四つだろうが、たいした違いはないようにも思える。
しかし、姉ちゃんの切羽詰まった声色が、それが些細なことではないと告げていた。
『それでね、私、怖くなって……計算してみたの』
「計算?」
『足跡の歩幅よ。ケンちゃん、覚えてる? 三メートルくらい離れてたって』
「うん、子供の目測だけど、そのくらいはあった」
『一つ目があって、三メートル先に二つ目。さらに三メートル先に三つ目。日記が正しいなら、そこで終わってた。……でも、私たちの記憶には「四つ目」がある。もし、その四つ目が、あの時、あの場所に「なかった」としたら?』
何を言っているんだ?
私は混乱した。
「なかったなら、僕たちが見た四つ目は何なんだよ」
『ケンちゃん、私たちが「四つ目」を見たのは、いつ?』
「いつって、あの日、坂を登って……」
言いかけて、言葉が詰まった。
本当に?
私の脳裏にある「四つ目の足跡」の映像。
それは確かに、あのコンクリートの上にある。
だが、一つ目、二つ目、三つ目の記憶と比べて、四つ目の記憶だけが、妙に鮮明すぎるのだ。
まるで、ついさっき見たかのように。
『もしね、あいつの歩幅が「時間」だとしたらどうする?』
姉ちゃんの声が、悲鳴のように掠れた。
『空間的な三メートルじゃなくて、一歩ごとに十数年という時間を跳躍していたとしたら? 一歩、二歩、三歩までは、あの日、あの場所に残っていた過去の痕跡。でも、四歩目は?』
三歩目から、四歩目までの間隔。
三メートルではなく、四十年だとしたら。
私はゆっくりと視線を落とした。
自分が今、立っている場所へ。
東京のマンション。フローリングの床。
電話を持つ私の右手が、小刻みに震え始める。
足元に、視線をやるのが怖い。
『ケンちゃん、逃げて』
姉ちゃんの叫び声と同時に、私は自分の裸足の右足のすぐ横を見た。
そこには、何もなかった。
ほっと息を吐き出しそうになった、その瞬間。
じわり、と。
乾いたフローリングの色が、濃く変色し始めた。
まるで、見えない筆で塗られているかのように。
黒く、湿った、粘液のようなものが、床から滲み出してくる。
踵の形。
土踏まず。
そして、指。
一本、二本、三本……。
私の足のすぐ隣に、巨大な右足の跡が浮かび上がっていく。
まだ、終わらない。
五本、六本……。
あの日、山道で途切れた「四歩目」が、四十年という時間を跳躍して、今、ここに着地しようとしている。
そして私は気づいてしまった。
その足跡の指の並びが、私の右足の指の並びと、鏡合わせのようにぴったりと重なり合う位置にあることに。
これは、私の隣に並ぼうとしているのではない。
この足跡は、私の右足の「中」に入ろうとしているのだ。
右足の裏が、焼けるように熱い。
八本目の指が、床に描かれた瞬間、私はスマホを取り落とした。
部屋の空気が、あの夏の日の、腐ったような緑の匂いで満たされた。
(了)
[出典:460 :本当にあった怖い名無し:2020/08/22(土) 16:49:25 ID:6Z0C9G7q0.net]