大学三回生の春、選択した民俗学の授業で、ちょっと変わった助教授に出会った。
まだ三十代前半で、くしゃっとした髪と無精ひげ。酒とタバコと古文書をこよなく愛してるって雰囲気が、最初の講義で席に着く前から伝わってきた。
質問したいことがあって講義後に声をかけたら、なぜかそのまま世間話に突入し、「飲みに行こうか」と笑って誘われた。なんとなく断れず、ゼミ仲間を二、三人誘って駅前の赤提灯に入った。
大学近くの居酒屋。すぐにテーブルは酒と話でいっぱいになった。助教授は酒が入ると饒舌になるタイプで、くだらない与太話から、院生時代に見たという祠の話まで、どれも小説みたいに面白かった。
夜も更け、他の客もまばらになって、店内のBGMが妙に耳につくようになったころ。テーブルの端から助教授が、財布のような黒いケースを取り出した。中から、古びた白黒写真を数枚、無造作にテーブルの上へ置いた。
「これ、なんだと思う?」
一番上に置かれていたのは、暗がりの中で撮影された、木像の写真だった。仏像だ。割と端正な顔立ちをしていて、何かに祈るような静けさをまとっていた。
「仏像ですね」と誰かが答えた。助教授は笑って「いや、そこまでは誰でも分かる」と、テーブルを指で叩いた。
「いつの時代のものか、作風とか、様式で当ててみてくれよ」
私たち学生は思い思いに、知っている知識を口にし始めた。
「目元が杏仁形だから飛鳥時代かと……」「蓮弁の意匠があるから、白鳳期じゃないかな」――まるで即席の研究会のように、頭の中にある断片を並べていく。だが、どこかその仏像に目を逸らしたくなるような、妙なざわめきが胸の奥で続いていた。
やがて、助教授が指を鳴らして言った。
「江戸時代だよ。だけど、飛鳥とか白鳳期の技術を模して造られてる。……でも職人の仕事じゃない。素人が、真似して造ったものだ」
その時点で、なんだか背筋が冷えた。だってそれは、単に古物の話じゃない、何かもっと個人的な――そう、呪いや祈りの話だと気づいたから。
「で、この仏像の面白いところな……」
そう言って助教授が新しい写真を取り出す。それは同じ仏像の、背面の写真だった。
無言になった。誰も何も言わなかった。
そこには、背中の中心、ちょうど仏像の心臓のあたりに、巨大な杭のようなものが打ち込まれていたのだ。割れた木肌に金属の杭がねじ込まれていて、まるで何かを封じるかのようだった。
「これ、呪術的な意味があると思ってさ。資料としてはあまり表に出せないけど、写真は記録用に撮ったものだ」
と、助教授は語り始めた。
その仏像は、ある田舎の古い家の蔵で見つけたのだという。古文書の調査依頼で訪ねた家。江戸時代から続く旧家で、蔵の中には文書以外にも、古い道具や木箱、漆器などが乱雑に積まれていた。
許可を得て蔵を調べていたところ、黒漆の箱に入った仏像を見つけたそうだ。
「箱には作った年と名前が墨で書かれていた。江戸後期。造ったのは、住職でも彫り師でもない……その家の先祖だった。おまけに、添えられてた書付に、こう書いてあった」
助教授はそこで一瞬黙った。手酌で酒を注ぎ、ひと口飲んだ。
「“この家の血筋が絶えるように”って」
場の空気が、音を立てて凍った。誰も笑わなかった。誰も、言葉を返せなかった。
「……何でそんなもの残しておくの?」「他の人が読んだらどうするの?」と口々に言ったが、助教授は続けた。
その仏像には、さらにもう一枚の書付が添えられていたという。別の筆跡。もっと新しい紙。
“この呪いが解けるように願って”というような一文と共に、祈るような言葉が綴られていたそうだ。
「つまり、仏像に杭を打ち込んだのは、後の世の誰かだ。誰かが、この呪いに気づいて、止めようとした。でも……」
助教授はそこでまた酒を飲み干した。まるで酒でしか流せないものを飲み下すように。
「その家、男の子がほとんど生まれないそうだよ。今も」
しん、としていた。テレビから流れる演歌だけが、異様なほど大きく聞こえた。私も他の誰も、何も言えなかった。
話はそれで終わった。助教授はふっと笑って、「まぁ、授業には関係ないんだけどね」と言って、それ以上は語らなかった。
……けれど。あれからずっと考えている。
なぜその家の先祖は、わざわざ仏像を彫ったのか。血を絶やすために、なぜ仏の姿を選んだのか。杭を打つことで、何が“封じられた”のか。
あの写真。今でも脳裏に焼きついている。
あの仏の背中に、あの杭が――人間の背中に杭を打たれたかのように、ぐしゃりと、深く。
助教授は最後に、ぼそりとつぶやいていた。
「なんかね、あの仏像、ずっと前からあそこにいたような気がするんだよね。江戸時代って書いてあったけど……もっと古くから、あそこにあったんじゃないかなって」
もし、あの仏像が、江戸時代よりも古い存在だったら――
杭を打たれた理由が、「祈り」や「呪い」ではなく、「封印」だったとしたら――
その家が、仏を捨てられない理由は、そこにあるのかもしれない。
[出典:762 :本当にあった怖い名無し:2005/08/02(火) 15:06:40 ID:vHElfGBy0]