あれは、まだ私の歯が乳歯だった頃。
二〇年以上前、父方の実家の島でのこと。
島といっても、定期便の船で四〇分もかかるけれど、港の突堤からは肉眼で見える距離にあった。
父の実家があるその漁村は、潮と魚と人の欲でできているような、古くてぬるい匂いのする場所だった。
私はいわゆる「美人」ではない。
それどころか、整っていると言われたことすらない。
運動神経も、勉強も、ごく平均。感受性にしても、自分に特別な何かがあると思ったことはなかった。
霊感? 笑わせないでほしい。夜のトイレを怖がって母を起こしていたくらいなのに。
唯一、「変だな」と言われたのは、子供のくせにトイレを磨くのが好きだったことくらいだ。
そんな私が、どうして「北になる」と言われたのか、今でもよくわからない。
ただ、ひとつ覚えているのは、あの島にいたときのこと。
島の名は、書かないでおく。地図にもまだ載っていると思うけれど、もう人は住んでいないはずだ。
二度、迷子になったのだという。
一度目は、海沿いの岩場にぽっかりと開いた海蝕洞で見つかった。
私の記憶にはないが、祖母が言うには、そこで「お兄ちゃんに遊んでもらってた」と話したらしい。
その「お兄ちゃん」は、誰だったのか。
島の誰にも該当する子どもはいなかったそうだ。
二度目は、もう少し奇妙だった。
ある日ふっと姿を消した私を、若い夫婦が家まで送ってくれたのだという。
髪の長い女の人と、白い作業着のような服を着た男の人。
二人は無言で私の手を引き、玄関の前まで来ると、祖母に何も言わずに私を押し出し、踵を返して去った。
祖母は礼を言おうとすぐ外に出たが、夫婦の姿はどこにもなかった。
道は細く、曲がるところもない。
まるで風のように消えたという。
あとになって、あの女の人が、数十年前に島で行方不明になった女の子に似ていた、と祖母がぽつりと漏らした。
生きていれば七〇近いはずだという。
そんな年齢の女性が、二十代そこそこの見た目で現れるだろうか。
そういえば、父が言っていた。
海の神様のもとに行くと、年を取らないのかもしれないと。
海の底には時間がないからだ、と。
この村では、神様は亀の姿をしていると言われている。
大きな、どこまでも静かな目をした神様。
ときおり人間の女を欲しがるらしい。
それを「北になる」と言うのだという。
父が小さい頃までは、まだその風習が生きていた。
「北になる娘」は村の中から選ばれ、ある日ふらりと家を出て、海に向かい、それきり戻らない。
誰も探しはしない。
探してはいけない。
そういう決まりだった。
私が「北になる」と言われたのは、七歳の夏だった。
島から帰ったあと、突然、網元と呼ばれる男が父の実家に現れた。
白いワイシャツにステテコ姿で、腹の出た、暑苦しいような風貌だったと母が言っていた。
祖父母にこう言ったそうだ。
「はなゑちゃんはいずれ北になる子だから、今のうちに引き取らせてはどうか。結納だと思って、これを納めてくれ」
五〇〇万円を差し出されたという。
母は怒った。
「娘をそんなものと引き換えにできるわけがない。しかもたった五〇〇万で」
金額に怒ったのではない。
命に値段をつけたことが、母には許せなかったのだろう。
父は無言で網元を追い返した。
それからというもの、祖父母からの連絡も来なくなり、島へも足を向けなくなった。
思えば、それが唯一の道だったのかもしれない。
けれど、時折思い返してしまうのだ。
もし、あのとき我が家が貧しくて、学費も足りず、電気代すら滞るような暮らしだったら?
あるいは、網元に頭が上がらないような事情があったら?
五〇〇万で娘の命を売ってしまう家が、ひとつもなかったとは言い切れない。
「北になる娘」は、誰にも止められない。
だって、表向きは自分の意志で出ていくのだから。
ある日、黙って靴を履き、ふらりと海へ行き、それきり帰らない。
ただの行方不明。
ただの神隠し。
だけど私は、知ってしまっている。
前に「北になった」娘さんの父親の網に、小さな盃がかかったという話。
それは、結婚の儀に使うような、朱塗りの三三九度の盃だった。
網の中で、魚の代わりにそれが揺れていた。
その村の海の底には、きっと家があるのだ。
若い夫婦の住む家。
盃が乾かない家。
笑い声のしない家。
私はもう三〇を超え、名前も変わった。
夫と娘と、小さな部屋に住んでいる。
でも夜になると、ときどき、夢にあの島が出る。
波も音もない海。
白い光に包まれた洞窟の奥から、声が聞こえる。
「はなゑ、まだ来ないの?」
あの「お兄ちゃん」の声だ。
ずっと待っている声だ。
……今でも、トイレは毎晩磨いている。
綺麗にしておかないと、迎えに来られる気がして。
本当に、海の底に家があるのなら。
行くべき人の順番は、もう決まっているのかもしれない。
[出典:513 :本当にあった怖い名無し:2016/05/23(月) 11:26:44.63 ID:S6iJwnEX0.net]