これは、十数年前に大学生だった頃の話として聞いたことだ。
もう記憶からも消し去りたい出来事だが、忘れることもできない出来事だという。
その夏、亡き祖父の初盆を迎えるために帰郷することになった。場所は鹿児島県のある離島で、県外から向かうには船を使う必要があるため、必然的に島に着く前夜を本土の港で過ごす必要があった。その日も例に漏れず、地元の人たちに勧められた島役場の泊まり込み施設に宿泊することにした。
その夜、役場に宿泊する者は彼女以外に中年の夫婦だけで、銭湯から戻り布団を敷いていると、夫婦の夫の方、仮にAさんとしておこうが、妙に気さくに話しかけてきた。久しぶりの地元にどこか懐かしさを感じながら、島の習慣や観光話などを気軽に交わしていたが、話の途中でAさんが「ところで君はどこの家の子か?」と尋ねてきた。
初めは観光客だと勘違いされていたようだが、祖父の法事で帰ってきたと伝えると、Aさんの顔つきが突然変わった。それまで穏やかだった表情が一瞬にして険しくなり、横にいた奥さんの笑顔も凍りついた。沈黙が流れる中でAさんが静かに口を開き、自分がこの島に帰ってきた本当の理由を語り始めたのだ。
「俺は、ある殺人事件で逮捕されたんだ。でも、俺はやってない。ずっと無実を主張してきたんだが、冤罪だって証明するために今回、島に戻ってきたんだ」
淡々と語るその口調には、妙な迫力があった。彼によれば、昔この島で殺人事件があり、Aさんもその場に居合わせたらしい。ただ、彼は犯行に加担していないというのだ。その時、被害者を殺害したのは数人の島民であり、その中に自分の祖父と伯父が含まれていた、と。
突然突きつけられた事実に頭が真っ白になり、ただAさんの言葉に耳を傾けるしかなかった。
「お前の父親はあの件には無関係だ。お前のお父さんは、いいやつだったよ……だが、祖父と伯父は、下っ端だった俺に罪をなすりつけた。くたばってざまぁみろ。地獄で苦しんでいるといい」
そう言い放つと、奥さんが「もういいでしょう」とAさんを止めた。それ以上は語られなかったが、Aさんの視線の底には、深く沈殿した憎しみが宿っていた。
その夜は、役場でただ自分とAさん夫婦の3人だけの静寂が漂う中、恐怖に震えながら一睡もできなかった。彼が語ったことが真実なのか、あるいは嘘なのか、それすらも確かめる術もなく、ただ朝を待つばかりだった。
翌朝、夜明けと共にそっと布団を抜け出し、夫婦がまだ眠っていることを確認して役場を後にした。乗船中もAさんに会うのが怖くて、船室の片隅で身を縮め、甲板には出なかった。
島に着くと、迎えにきた父と叔母が笑顔で手を振っていたが、昨夜の話を父に打ち明ける気にはどうしてもなれなかった。そして十年以上が経ち、初めて父にこの話を告げたのだが、父は何も知らないという。ただ、事件の真相を知っているかもしれない伯父も、昨年亡くなってしまった。
あれが真実だったのか、それともAさんの作り話だったのか──。その答えは今も闇の中だ。そして、自分が信じていた祖父像もまた、あの夜以来どこか影がさしている。以来、島を訪れるときは決して役場に泊まることはない。