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これならできるよ rw+2,084-0123

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小学六年の頃の話だ。

今でもその記憶を思い返すと、皮膚の奥を小さな針で刺されるような寒気が走る。

あの日の出来事は、夢や幻覚で片づけてしまうには、あまりにも手触りが残りすぎている。匂いも、音も、空気の重さも、すべてが今も身体のどこかに引っかかったままだ。

当時、僕は吉祥寺にある進学塾に通っていた。家は隣の区にあり、通塾には路線バスを使っていた。夕方になると空気が冷え始め、街灯が一つ、また一つと点り始める。その時間帯に、決まって同じバス停で待つのが日課だった。

その日も、いつもと変わらない帰り道だった。
バスに乗ると、最初は空席が目立ち、僕は窓際の席に座った。ランドセルを膝に抱え、ガラス越しに流れていく街並みを眺めていた。途中の停留所から人が増え始め、気づけば車内は立ち客で埋まっていた。

そのときだ。
目の前に、一人の老人が立っていることに気づいた。

一見して、普通の年寄りとは違って見えた。背筋は不自然なほどまっすぐで、体つきは痩せているのに、弱々しさがない。濃い色のスーツを着こなし、頭には古風なハットを被っていた。年齢と服装、そして佇まいが、どこか噛み合っていない。

子供心に、席を譲らなければという思いが先に立った。
僕は立ち上がり、声をかけた。

「どうぞ」

老人はにっこりと微笑み、「ありがとう」と言った。
その笑みが、なぜか引っかかった。皺だらけの顔なのに、目だけが妙に生き生きとしていて、光を含んでいるように見えた。

老人は席に座ると、しばらく黙っていたが、やがてこちらを見上げて言った。

「君は、優しいね」

それだけの一言だったが、胸の奥がくすぐったくなり、僕は安心してしまった。成績のこと、塾のこと、将来の話。今思えば取るに足らない会話だが、当時の僕には、大人と対等に話しているような気分だった。

途中、ふと僕は思い出したように口にした。

「親から、知らない人とは話すなって言われてるんだ」

老人は少しだけ目を細め、楽しそうに笑った。

「こんな年寄りが、君をどうこうできると思う?」

僕は首を横に振った。そのとき、疑いという感情は一切なかった。ただ、安心しきっていた。

やがてバスは吉祥寺駅に近づいた。
ロータリーの明かりが窓から差し込み始め、降車の準備をする乗客たちがざわめきだす。そのとき、ずっと気になっていたことを、僕はつい口にしてしまった。

「……マジシャンなんですか?」

老人は声を立てずに笑った。しばらくして、人差し指をすっと立て、静かに言った。

「でもね、これならできるよ」

意味はわからなかった。
何が「これ」なのか、聞き返そうとした瞬間、バスは停車した。乗客たちが一斉に降り始め、気づけば車内には僕と老人だけが残っていた。

胸がざわついた。
理由はわからない。ただ、早く降りなければいけない気がした。

僕は慌ててバスを飛び降りた。

その瞬間、視界が赤に染まった。

夕焼けではない。ネオンでもない。
目を刺すような、濃く、重たい赤。思わず目を覆ったが、瞼の裏まで赤が染み込んでくる。数秒後、おそるおそる目を開けると、世界が赤かった。

駅前ロータリー、人の流れ、車道。すべてが血の色を通したように歪んでいる。音がなかった。クラクションも、話し声も、足音も消えていた。

最初に感じた異常は、静かすぎることだった。
さっきまで確かにいたはずの人間が、どこにもいない。車も止まっているのか、動いているのかわからない。ただ赤い景色だけが、凍りついたように広がっていた。

息が詰まり、足が勝手に後ずさった。
耐えきれず、僕は走り出した。

駅前通りを抜け、見慣れたはずの場所を必死に駆ける。普段なら人が溜まっているはずの場所も、影一つない。赤い世界が、ただ続いているだけだった。

膝が笑い、とうとうその場に崩れ落ちた。
声を上げて泣いた。助けを呼んだつもりだったが、音は自分の中に吸い込まれていくようだった。

顔を上げたとき、そこに老人が立っていた。

赤い世界の中で、彼だけがはっきりと輪郭を保っていた。
いつの間に来たのか、どうやって来たのか、まったくわからない。

「戻して」

泣きながら、そう叫んだ。

「お願いだから、戻して」

老人は困ったように微笑み、僕の頭に手を置いた。
その手は冷たくも温かくもなく、感触だけがあった。

「怖がるとは思わなかったよ」
「ごめんね」

その瞬間、耳の奥に音が戻ってきた。
クラクション、笑い声、雑踏。赤はゆっくりと薄れ、いつもの吉祥寺駅前が現れた。

気づけば僕は横断歩道の真ん中で泣いていた。
周囲には人だかりができ、何事かとこちらを見ている。慌てて立ち上がったが、あの老人の姿はどこにもなかった。

家に帰ってからも、あの出来事は誰にも話せなかった。
説明しようとすると、どこから話せばいいのかわからなくなる。

それからというもの、赤い色が苦手になった。
夕焼け、ネオン、信号。特に赤信号を見ると、なぜか時間の感覚が狂う。いつもより長く、じっと見られているような気がする。

大人になった今でも、夜の人混みで、ふとハットを被った痩せた後ろ姿を見かけることがある。
振り返ると、そこには誰もいない。

あのとき、本当に元の世界に戻ったのか。
それとも、あの赤い世界を一度見てしまったことで、僕の見え方のほうが変わってしまったのか。

その答えは、今もわからない。
ただ、赤信号が変わる瞬間だけは、今でも目を逸らしてしまう。

[出典:465 :2008/11/24(月) 21:17:34 ID:6QjuRh660]

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