あの男から話を聞いたのは、深夜の喫茶店で、ぼんやりと照明が薄暗い、湿った空気の中だった。
彼はグラスの縁を指先でなぞりながら、途切れ途切れに語り始めた。その顔は憔悴しきっていて、目の奥には底知れぬ疲労と恐怖がにじんでいた。
「俺にはね、時々、記憶にぽっかりと穴が開くんですわ」
そう言って、彼は乾いた笑みを浮かべた。気づけば数時間が過ぎていて、その間の出来事をまったく思い出せないという。その現象は、彼が疲れている時や、仕事が立て込んでいる時期に頻発していたという。彼はそれを、単なる疲労からくるものだと考えていた。一種の現実逃避、精神的なシャットダウンだと。運転中や仕事中には起きないから、まあ大丈夫だろうと、軽く考えていたのだ。
しかし、その不可解な空白は、ある休日を境に、彼の日常を侵食し始めた。
二ヶ月ほど前のこと。ゲームセンターに行こうと家を出たところまでは覚えている。気がつくと、彼は駅前の喫茶店で、冷めたコーヒーを啜っていた。腕時計を見ると、家を出たのが午前十一時、そして、我に返ったのが午後二時半。三時間半の空白。またかと、いつものように疲労のせいだと片付けようとした。
ところが、翌日、会社の同僚の女性が彼に話しかけてきた。
「昨日のお昼、駅前のスタバにいたでしょ。一緒にいたお友達、すごくいい男だったじゃない。今度紹介してよ」
彼は、何を言われているのかわからなかった。スタバにいたのは事実だが、一人でいたはずだ。友人と会う約束などしていなかった。動揺を悟られまいと、曖昧に相槌を打つ。しかし、彼女が続ける言葉は、彼の心臓を冷たい氷で締めつけた。
「冗談よ。でもちょっと本気かも。長身で、髪が長くて、まるで中性的な雰囲気で、私の好みだったの」
彼女は、彼とその男が、子どもの頃の思い出話に花を咲かせていたと話した。近所の川でザリガニを釣ったこと、駄菓子屋でくじを当てるためにした無駄な努力、そんな懐かしい話で、とても楽しそうに盛り上がっていたのだと。
彼は、その男に心当たりがなかった。そもそも、ザリガニ釣りなんてしたこともなければ、駄菓子屋のくじに熱中した記憶もない。彼女は嘘をついているようには見えなかった。真実を語っている、という確信が、かえって彼を深く恐怖させた。
その場は何とか取り繕ってやり過ごしたが、彼の胸の奥には、黒い塊が沈殿した。いったい誰だ。あの、自分と一緒にいた男は。
そして、今年――、そう、彼が私に話していた日のゴールデンウィークだ。
特に予定もなく、街をぶらついていた彼は、またしても三時間の空白に襲われた。今度は、馴染みのゲームショップに入ったところから、駅前の噴水で煙草を吸っているところまでの記憶がない。
数日後、大学時代からの悪友から電話がかかってきた。
「そういやさあ、お前、この間の五月五日に○○駅前にいただろ」
心臓が跳ねた。
「あの時のお前の連れな、スラッとした長身で、ロングヘアだったからさ、最初は彼女かと思っちまったよ。驚いたけど、よく見たら男だったから安心したぜ」
友人の言葉は、まるで彼の心を抉るように響いた。その男の風貌を詳しく訊くと、どうやら、二ヶ月前の喫茶店で一緒にいた男と同一人物らしい。
「俺は、その男の顔を、見たことがないんですよ」
彼は震える声でそう言った。小学校時代のアルバムを引っ張り出して、親しかった友人の顔を一人残らず確認したが、該当する人物はいない。まるで、最初から存在しなかったかのような空白の友人。それでも、彼はそこにいる。彼の記憶の空白を埋めるように、常に寄り添うようにして。
そして、さらに一週間後のこと。
彼は、ついにその「空白の友人」と再会した。いや、再会という表現は正しくない。初めて、その男の存在を、自分の意思で認識したのだ。
その日もまた、記憶が飛んだ。気づけば、薄暗いビルの屋上だった。コンクリートの縁に腰掛け、足元には、錆びついた手すりが一本、転がっていた。そして、彼のすぐ隣に、男はいた。
すらっとした長身、黒いロングヘア。ユニセックスな雰囲気のその男は、遠い目をしながら、彼に向かってゆっくりと口を開いた。
「どうして、お前はいつも……」
男は、そう言って、そこで言葉を切った。彼の背後から、強い風が吹き抜けていった。男は何も言わず、彼の顔をじっと見つめていた。その瞳は、まるで、深い井戸の底のように真っ暗で、彼自身の顔を映していなかった。
男は、立ち上がると、コンクリートの縁に立った。そして、まるで、その場所が彼の定位置であるかのように、自然な仕草で、その手すりを両手で持ち上げた。手すりの先端は、鋭く尖っていた。
男は、その手すりを、彼の腹に突き立てた。
彼は激しい痛みに襲われ、息が詰まった。男の顔を見ると、その表情は、どこか悲しげで、苦しげで……。
次に気がついたとき、彼はベッドの上だった。身体には、何事も起きていない。ただ、腹部に、奇妙な痣ができていた。まるで、誰かの手の跡のような、不気味な形をした痣が。
そして、その日を境に、彼の記憶が飛ぶことはなくなった。代わりに、彼の周りで、奇妙な死が相次いだ。
まず、彼の家の隣に住んでいた老人が、ベランダから転落死した。警察は、手すりの老朽化が原因だと結論づけた。
次に、彼の会社の同僚の女性が、深夜、踏切で電車に轢かれて死亡した。友人が言うには、彼女は最近、体調を崩して、仕事のミスが続いていたのだという。
そして、最後に、彼の大学時代の悪友が、自宅の浴槽で溺死した。警察は、泥酔して浴槽に落ちたのだろうと判断した。
彼は、私に語り終えると、静かにグラスを置いた。
「俺は、俺自身が殺したんじゃないか、と思うんです」
彼の目は、もはや恐怖に怯えるのではなく、諦めと、どこか深い絶望に満ちていた。
「俺の記憶が飛んでいる間に、俺自身が、あの男の姿を借りて、俺の周りの人間を殺しているんじゃないかと。そして、あの男は、俺が、いつか、自分自身を殺すのを待っているんじゃないかと……」
彼は、もう一度、乾いた笑みを浮かべた。そして、私に、こう尋ねたのだ。
「先生、俺は、いつになったら、あの男に、殺されますかね」
私は、彼の問いに答えることができなかった。
[出典:13 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/05/21 20:56]