あれは、彼が小学校の低学年～一年か二年の頃の出来事だという。
山に囲まれた集落の、夕方になると土の匂いが濃く沈む地域だったらしい。
話を聞くかぎり、光が斜めに射しこむ帰り道の空気は、ひとの背丈より高い草の影で褪せていた。
風が吹くたび、乾いた葉のこすれる音が、子どもの歩調をせかすように揺れていた。
そんな帰り道で、知らない男女に呼び止められたのだと彼は言った。
ただ、その「知らない」という言葉のあとに、必ず一拍置く。
どこかで見たことがある気がした、と。
思い出せないのに懐かしい……胸の奥をひっぱられるような感覚が先に立ち、警戒の方が後ろへ退いたらしい。
その女の方が、軽く腰を折るようにして訊ねてきたという。
「地底の世界に遊びに行ってみない？」
声は驚くほど柔らかく、耳元で吸い込まれそうな温度だったらしい。
彼はなんと返したのか覚えていないが、つぎに気づいたときには二人について歩いていた。
学校の帰り道から、さほど離れていない場所だったはずだという。
茂みの奥へ曲がった瞬間、様子の違う空気が流れ込んできた。
湿り気が少し増して、鼻の奥に金属を擦るような微かな匂いがあったと彼は言った。
その先に、宙に浮いたまま静止している乗り物があったらしい。
彼いわく、その見た目は「電車に似ていた」と表現するしかないそうだ。
透明な鱗のような外板が、夕光を反射して淡く光り、下にはタイヤもレールもなかった。
ただ浮き、ゆっくり脈打つように揺れながら、乗り込むのを待っていたらしい。
彼はその先頭に座らされ、胸を押さえた手のひらから自分の鼓動が硬く伝わってきたと語った。
乗り物が動き出すと同時に、足元がふっと軽くなったという。
風の感触が無いのに目の前の景色だけが流れていき、まるで体だけが置き去りになるような奇妙な浮遊感だった。
トンネルの口に入る瞬間、耳の奥で細い音が長く伸び、それが合図のように地の中へと落ちていった。
壁は近くにあるのにぶつかる気配もなく、車体はただ滑るように宙を走ったらしい。
内部の通路は、アリの巣のように枝分かれしていたという。
確かな方向感覚を失うほど、交差と分岐が繰り返されていた。
所々で光の点滅があり、それが信号のように他の乗り物へ合図していたらしい。
彼は先頭にかじりつくようにして見続け、息を忘れるほど興奮していたという。
そして、気づけば地底の世界に着いていた。
「到着」という実感がほとんど無かったのだと、彼は不思議そうに振り返った。
ただ視界が開けた瞬間、濃い緑が押し寄せるように迫り、光の粒が肌に生ぬるく触れた。
そこは、彼が「地球の原始時代みたいだった」と表現した世界だった。
彼が言うには、地底に着いた瞬間、胸の奥がふっと温かくなるような感触があったという。
光が地面から立ちのぼり、肌の裏側までじんわり染みこむようで、地上の光とは別の質感だったと彼は語った。
その光に照らされた駅のような場所は、壁が金の薄膜のように脈動して見え、塗られた色というより、素材そのものが発している輝きだったらしい。
駅を出ると、そこには巨大な植物が林立していた。
葉の裏には薄い霧がたまり、地面には見たことのない厚みの根が縦横に這っていたという。
彼はそこで、ひときわ大きなトウモロコシを見たらしい。
それは黄金色というより、触れたら熱を返しそうな光そのものの色で、周囲の緑の濃さと奇妙に調和していた。
そして、その奥に“ひと”が立っていた。
彼の視界の高さでは胸の辺りにしか届かないほど背が高く、肌の表面が微細な光粒で覆われていたという。
呼吸をすると、温度が変わるような気さえしたと言うのだから、その存在感は尋常でなかったのだろう。
その人物が、まるで古い友人でも迎えるかのように手招きし、彼を呼んだ。
歩み寄るほどに耳鳴りが強まり、胸の奥が妙に落ち着いてくる。
言葉を交わしたはずなのに、内容のほとんどを覚えていないと彼はこぼした。
ただひとつ、「生まれた時から見ている」「成長すれば再び会う」と伝えられたという。
帰りの道の記憶も曖昧で、気づけば夕方の帰り道に立っていたらしい。
親に話したが信じてもらえず、彼はひどく落ち込んだという。
翌日、場所を探して歩いたが、乗り物の痕跡はどこにも見当たらなかった。
湿った土と草の匂いは昨日と同じなのに、どこかが違っていた、と。
その後の日常は平穏だったが、彼の中には、あの日の光が薄く沈殿していたという。
消えたわけではなく、思い返すたび、胸の奥で微弱な熱を帯びるような感触が残ったらしい。
そして数年後――その熱が再び反応する出来事が起こる。
小学校四年の夏。
家族旅行で訪れた高原の遊園地でのことだ。
空気が薄く、太陽の光が乾いた板のように降りてくる場所だったという。
そこでも彼は、胸の奥が静かに押されるような“感覚”を覚えたらしい。
人の少ない遊歩道に足が勝手に向かい、気づけば親の姿は遠くにぼやけていた。
風の流れが変わった瞬間、ふと振り返ると、以前と同じ“あのおばさん”が立っていたという。
その横にいた、若い女性。
彼はその人を見た瞬間、何かが一気に戻ったのだと語った。
「本当の母親だと分かった」
彼はその言葉を口にしたあと、しばらく黙り込んでいた。
説明できる感情ではなく、思考より先に涙が溢れたのだという。
その女性は、人間の姿をしているのに、胸の奥へ直接触れるような温度を持っていた。
女性は静かに彼の前へしゃがみ、手を伸ばそうとしたが、結局触れなかったらしい。
ただ視線の奥で何かを押し殺すように揺れ、そこに圧倒的な慈しみがあったと彼は言った。
そのとき語られた話は、彼にとって理解しきれないほど大きかったという。
「あなたは地球の子ではない。
わたしたちと同じ星から来た“魂”で、生まれる前に地球へ送られた」
彼は地上の母の体を借りて生まれたが、霊的な起源は地球とは別にあるという話だったらしい。
そして地球には同じような存在が相当数送り込まれている、とも。
それらは特別でも選ばれし者でもなく、“変革期の観測役”として配置されたと説明されたという。
彼は話の内容より、目の前の女性――“本当の母”の温度に圧倒され、子どもながらに声を上げて泣いた。
連れて行ってほしいと懇願したが、女性は悲しげに微笑むだけだったという。
「成すべきことを終えたころ、また会える」
そう告げる声は、言葉ではなく、胸の内部へ滲む響きだったと彼は表現した。
別れは一方的だったらしい。
女性とおばさんは、光が薄膜になるように透けて、その場から消えたという。
涙をぬぐえないまま彼は家族のもとへ戻ったが、直前まで見ていた“輝く人”の記憶が、新しい現実を急に冷たくしたと語った。
その日の帰りの車の中で、彼はただ黙って窓の外を見つめていた。
親にも話さなかった。
言葉にした瞬間、あの温度が壊れてしまう気がしたのだという。
そして話を聞き終えたあと、彼はぽつりと付け加えた。
「地底で会った高い人と、本当の母親は別なんだと思う。
だけど……どちらも、同じ目をしていた」
彼はそれ以上語らなかった。
ただ、最後にこう言った。
「時々ね、夜中にふっと目が覚めるんだ。
胸の奥があの日みたいに温かくなって……
誰かが見てるんじゃなくて、ずっと“見ていた側”に戻りかける感じがするんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、語り手の背後で誰かの視線がそっと形を変えたような錯覚があった。
彼は笑っていたが、その笑みに温度が無かったことを、私は今でも忘れられない。
[出典：984 ：本当にあった怖い名無し：2012/10/02(火) 13:11:07.34 ID:Cos6/Vvm0]
