一九九八年一月、角田さん(仮名)は仕事を終え、都内のアパートに帰宅した。
部屋の前には見覚えのある女性が立っていた。半年前に別れた元恋人、雅子(仮名)だった。
彼女は角田さんを見つけると、ゆっくりと笑顔を浮かべた。その笑みは親しみというよりも、どこか確信めいたものを感じさせた。しかし、角田さんは嫌な予感がした。彼女は別れを受け入れられず、ほぼ毎日ここへ来ていたのだ。
最初は懐かしさや罪悪感もあったが、しつこい訪問が続くうちに恐怖を感じるようになった。無言電話や手紙、仕事帰りに突然現れる彼女。夜中に窓の外を見ると、暗闇の中、ただ立ち尽くしながらじっとこちらを見つめていた。その顔は表情がなく、まるで何かを待っているかのようだった。
恐ろしくなった角田さんは、ネットで見つけた『別れさせ屋』に相談した。彼らは「今は様子を見たほうがいい」と言った。
それから一ヶ月後、角田さんが帰宅すると、彼女の姿はなかった。ホッとして部屋に入った瞬間、息をのんだ。
雅子が、部屋の中で待っていたのだ。
「おかえりなさい」
彼女は微笑みながら立っていた。管理人を騙して合鍵を借りたのだという。角田さんは思わず怒鳴った。
「もうやめろ! 俺には新しい彼女がいるんだ!」
しかし、雅子は表情を変えなかった。そして静かに、片手に持っていた剃刀を自分の手首に当てた。
鈍い音とともに、赤黒い血が畳に染み込んでいく。傷口から絶え間なく流れる血が、じわじわと広がり、畳の繊維を濡らしていく。驚いた角田さんは震える手で彼女を抱え、必死に病院へと運んだ。幸い一命は取り留めたが、医師は彼女の精神状態の深刻さを指摘し、そのまま入院することになった。
彼女の異常な執着が怖くなり、角田さんは彼女が入院している間に仕事を辞め、実家のある長野県へ引っ越した。
長野の静かな風景に囲まれ、ようやく落ち着いた生活を取り戻せると感じていた。家族の温かさに包まれ、過去の悪夢はもう終わったのだと安堵していた。
しかし、それは新たな恐怖の始まりだった。
引っ越して三ヶ月後、仕事を終えて家族のいる居間に行くと、そこには雅子がいた。
彼女は楽しそうに家族と話していた。母親が笑顔で言った。
「あなたのお姉さんになるのよ」
雅子は立ち上がり、微笑んだ。
「はじめまして。雅子です。よろしくね、弘さん」
彼女は角田さんの兄と結婚することになっていた。
逃げたはずの相手が家族の一員になろうとしている。目の前が暗くなるような感覚に襲われた。もう逃げられない。
その後、彼女は兄と結婚し、子供まで授かった。
しかし、それで終わりではなかった。
今も彼女の視線を感じるのだ。
まるで「これでずっと一緒ね」とでも言うように、その視線はどこまでも優しく、しかし決して逃がさないという確信を秘めていた。まるで見えない糸で絡め取られたような感覚が、角田さんの全身を支配する。
角田さんは悟った。
もう一生、彼女から解放されることはないのだ……。