某チェーンの居酒屋でバイトしていたのは、もう何年前になるのか。
少し前のことのようにも、ずいぶん昔の出来事のようにも感じる。はっきりしているのは、あの店の匂いと音と、そして一人の男の目だけは、今も曖昧にならないということだ。
油がはねる音。カウンターに染みついた酒と洗剤の混じった匂い。閉店間際になると、客の声が急に薄くなり、厨房の奥だけがやけに現実味を帯びる。そんな時間帯になると、決まってその男は現れた。
高嶋さんと名乗った。四十代半ばくらいに見えた。細身のスーツはいつも皺一つなく、酒を飲んでもネクタイを緩めない。目の下に深い隈があり、笑顔のはずなのに、口元だけが動いていないように見える。視線が合うと、こちらの方が先に逸らしてしまう。理由は分からない。ただ、そうしたくなかった。
最初は、よくいる無口な常連の一人だと思っていた。カウンターの端に座り、モツ煮と芋焼酎を頼む。話しかけてくることはないが、こちらが何か聞けば、必ず答える。その答えが妙に遅れることもなければ、酔って崩れることもない。いつも同じ姿勢で、同じ目でこちらを見ていた。
常連という言葉が、だんだんしっくりこなくなった。客のはずなのに、店の一部のようにそこにいる。いなくなると、逆に違和感が残る。閉店作業をしながら、今日は来なかったなと思うことが増えた。
ある夜、洗い場でグラスを洗っているときに、背後から声をかけられた。
「若い頃、山奥の工事現場にいたことがある」
唐突だった。こちらが何も聞いていないのに、続きを待たれているような間があった。
「ダムの工事でな。飯場にいた」
それだけ言って、焼酎を一口飲んだ。俺が曖昧に相槌を打つと、少し考えるような間があって、また続けた。
「雨が続いてな。道が落ちて、しばらく外と切れた」
具体的な話はそこまでだった。何日閉じ込められたのか、どうやって戻ったのか、そういう肝心なところは語られない。こちらが踏み込もうとすると、目だけがじっとこちらを見る。その視線に、続きを聞く気が失せた。
ただ一つ、妙に印象に残った話がある。
「犬がいたんだ」
飯場に犬がいたという。誰かが飼っていたわけでもないらしい。飯を作る女が世話をしていて、名前もなかった。人懐こくて、誰にでも尻尾を振る犬だったと。
「でもな、ある時からだ。俺を見ると吠えるようになった」
冗談めかした言い方だったが、目は笑っていなかった。
「俺だけじゃない。俺と話したあと、他の連中を見る目も変わった」
理由は分からないと言った。犬に分かることなんてないだろう、とも。だが、そのあとに続いた一言だけが、妙に引っかかった。
「吠えてるのが犬なのか、分からなくなる時がある」
それ以上は何も話さなかった。
数日後、高嶋さんに飲みに行こうと誘われた。断る理由はいくらでもあったが、その日はなぜか断れなかった。差し出されたビールを一口飲んでしまい、そのまま流れで店を出た。
連れて行かれたのは、場末のビルの奥にあるフィリピンパブだった。扉を開けた瞬間、空気が違うと感じた。賑やかなはずの店内なのに、笑い声が壁で反射しているだけで、人の体温が伝わってこない。
高嶋さんは慣れた様子で女の子を指名し、カラオケを始めた。俺は酒の勢いもあって、適当に相手をしてくれる女の子と話していた。その中に、一人だけ、こちらを見ない子がいた。顔を上げないのではなく、意識的に視線を避けているようだった。
気になって声をかけようとした瞬間、高嶋さんがマイクを置いて立ち上がった。
「その子はいい」
穏やかな声だったが、否定の余地がなかった。女の子は何も言わず、すっと席を外れた。周囲の空気が一段冷えたのが分かった。誰も歌わない。伴奏だけが流れ続けている。
しばらくして、高嶋さんは何事もなかったように歌を再開した。俺はその背中を見て、なぜか犬の話を思い出していた。
帰り際、さっきの女の子が通路で立ち止まり、俺の耳元で小さく言った。
「アイツ、ミナイ」
何を、と聞くと、彼女は首を横に振った。
「ミナイヨ。アノ人ノ、ウシロ」
その言い方が、説明でも警告でもなく、事実の報告のようだった。
店を出たあと、夜風に当たっても酔いは醒めなかった。高嶋さんと別れて、一人で歩きながら、何度も後ろを振り返った。誰もいない。それでも、視線だけが残っている気がした。
それから、俺はその居酒屋を辞めた。高嶋さんとも、それきり会っていない。だが、完全に終わったわけではない。
今でも夢に見る。夜の交差点で、向こうからスーツ姿の男が歩いてくる。マイクを持ち、口元は笑っている。近づくにつれて、音が消える。足音も、街の気配も。
目が合う。
その瞬間、どちらが吠えているのか、分からなくなる。
目を覚ますと、喉が痛い。声を出した覚えはない。それでも、部屋のどこかに、呼吸の残り香が漂っている。
鏡を見るのが、少し遅くなった。
[出典:544 名前:あなたのうしろに名無しさんが…… 投稿日:2003/01/26 21:04]