十一月の半ばを過ぎたというのに、生暖かい雨が降っていた。
アスファルトを叩く雨音は粘り気を帯びていて、靴底から伝わる感触もどこか頼りない。埼玉県の西部、かつて街道の宿場町として栄えたその地区は、今でも住所に「宿」という文字を残している。関越自動車道が町の外れを無機質に切り裂いているが、高架下をくぐり旧道へ入ると空気の密度が変わるのがわかった。ナトリウム灯のオレンジ色が濡れた路面で乱反射し、古い商家造りと新建材の住宅が歯抜けのように交互に並んでいる。
時刻は深夜二時を回っていた。本来なら布団の中にいるべき時間だが、私の手元には青白い光を放つスマートフォンがある。画面の中では現実の地図と重なった黒いフィールドが広がり、緑や青の光点が明滅している。位置情報を使った陣取りゲーム。私は遅れて参入したくせに、近隣のポータルを埋めることに執着していた。
画面上の矢印が、ゆっくりと旧道の奥へ進んでいく。雨脚は弱まらず、霧雨のような細かさに変わって視界を白く濁らせた。湿度は異常に高く、呼吸をするたび肺の中が濡れた綿で満たされるような息苦しさがある。腐った木材の甘酸っぱい匂いと下水の臭気が混ざり合い、鼻腔の奥にへばりつく。風はない。ただ雨が落ちる音だけが耳鳴りのように続いていた。
この辺りは旧家が多い。高い板塀に囲まれた屋敷森を持つ家々は、この時間帯になると深い闇に沈み込み、門灯の光さえ吸い込むようだった。私は傘を差し、スマートフォンの画面を指で拭いながら歩を進めた。目的のポータルまで、あと百メートル。画面には「〇〇塚」という名称と、小さな祠の写真が表示されている。街道から少し外れた、小高い山の裾野に位置していた。
由来は簡素で、ユーザーが投稿したと思しき不鮮明な写真だけが祠を捉えている。だが私は、この塚について地元の古老から聞いた話を思い出していた。昔、旅の山伏が宿場を訪れ、宿の主人と揉めた。何が原因かは曖昧だ。金のことか、もっと湿ったことか。確かなのは、夜のうちに山伏が死に、裏山へ運ばれたということだけだ。土地の人間はうっすら知っているのに、誰も口にしない記憶。私はまさにその場所へ向かっていた。
道路脇の側溝を流れる雨水がゴボゴボと不快な音を立てる。私は画面と現実の暗闇を交互に見比べた。GPSが乱れているのか、画面上の現在地が小刻みに震え、ときどき大きく跳ねる。目的の塚は住宅地の裏手に迫る雑木林の入り口にあるはずだった。舗装が途切れ、砂利道に変わる境界。その脇に一軒、古びた家が建っていた。
黒く塗られた板壁は雨に濡れてぬらぬらと光り、巨大な生き物の皮膚を思わせる。門扉は固く閉ざされ、中を窺うことはできない。表札を見た瞬間、私は足を止めた。古老の話では、祟りを恐れて改姓した家だと聞いていた。だが表札の文字は風化して読み取れない。ただ削れた窪みだけが、何かの記号のように黒く浮き上がっている。
私は家の脇を通り抜け、裏山へ続く細い小道へ足を踏み入れた。靴底が濡れた土を噛む感触が足首にまで伝わってくる。じゃり、じゃり、と砂利が鳴り、その音が心拍と重なる。スマートフォンの画面が不意に明度を落とした。バッテリーは十分なはずだ。だが地図はノイズが走ったように歪み、目的のポータルが点滅を繰り返している。警告なのか、手招きなのか判断がつかない。
冷たい雨の滴が首筋を伝って背中へ滑り落ちた。私は身震いを一つして足を止めた。闇の奥から、微かな金属音が聞こえた気がしたからだ。チリーン。錫杖の遊環が触れ合うような、涼やかでいて神経を逆撫でする音。空耳だと思いたいのに、雨音の底に、別の唸りが混じっている。
私は画面を頼りに塚の位置を確認した。距離はあと三十メートル。なのに、もっと遠い。距離の単位が違うような感覚がある。息を吸うと、湿った土の匂いの中に、鉄錆の刺激が混じって鼻の奥を刺した。胸の奥がざわつき、指先が勝手に震える。スマートフォンを操作しようとしても、濡れた指が反応しない。焦る。早くハックして立ち去りたい。そう考えること自体が、すでに追い立てられている証拠だった。
不思議なことに、山へ入ってから誰ともすれ違っていない。こういう場所ほど、深夜でも動くプレイヤーがいるはずだ。だがポータルは「白」、誰のものでもない中立の状態を示していた。誰も触れていないのか、触れないのか。自分の呼吸音が雨音の中で異様に大きく響く。ハア、ハア。自分のものなのか、すぐ耳元で誰かがしているのか、区別がつかなくなる瞬間がある。背後の闇が質量を持って迫ってくるような圧迫感が増し、振り返るなという直感だけが強くなる。
そのとき、スマートフォンが短く震えた。通知ではない。ゲーム内のアラートだ。「ターゲットに接近」機械的な音声がイヤホン越しに脳内へ滑り込む。顔を上げると、木々の隙間から小さな石の祠がぼんやり浮かび上がっていた。濡れた石肌は黒く沈み、周囲の闇を凝縮した塊のように見える。祠の周りだけ雑草が一本も生えていない。赤土が剥き出しになり、雨に打たれて赤黒い泥濘を作っている。
私は息を飲んだ。祠の前に、真新しい花が手向けられていた。誰が、こんな時間に。いや、もっと奇妙なのは色だった。白菊ではない。毒々しいほど鮮やかな紫のリンドウ。街灯もない暗闇の中で、自ら発光しているように艶めいている。
一歩、また一歩と祠に近づく。画面上のポータルが拡大され、詳細画面を開いた。履歴欄は文字化けし、読み取れない。だが最終アクセス日時だけが、妙にくっきり表示されていた。
昭和六十三年〇月〇日。
あり得ない。このゲームが存在したのは平成の後だ。バグだと決めつけた瞬間、背筋が冷えた。祠の写真をタップして拡大したとき、画像の隅に別の写真が重なっていることに気づいたからだ。土の中から半分ほど姿を現した白骨。眼窩の奥に、黒い影が映っている。影はそこにいるはずのない視線の向きで、こちらを向いていた。

私は瞬きもできずに画面を見つめた。雨音が遠のき、耳の奥で金属が擦れる音だけが残った。チリーン。今度は確かに、近い。スマートフォンのスピーカーからではなく、背後の闇から聞こえた。
指が勝手に動いた。ハックボタンを押していた。押した覚えはないのに、押していた。
『ザザッ……』
砂嵐のようなノイズが漏れ、同時に指先に熱さが走った。スマートフォンの背面が急速に発熱している。まるで濡れた手袋の中に熱い金属を押し込まれたみたいだ。私は反射的に端末を取り落としそうになったが、どうにか堪えた。
画面には取得アイテムのリストが表示された。だが見慣れたアイコンではない。文字だけが無機質に並ぶ。
『錆びた鉄輪』
『砕けた大腿骨』
『泥まみれの髪束』
リストをスクロールしようとした瞬間、鼻をつく匂いが濃くなった。腐葉土ではない。線香を焚き詰めたような煙たさと、甘さと、饐えた臭い。その匂いが、スマートフォンのスピーカー穴から漂ってきている。私は喉の奥で乾いた音を立てた。逃げなければならない。そう思って踵を返そうとした。
右足が動かない。
泥に足を取られたのだと思い、視線を落とす。スマートフォンの光が私の革靴を照らした。泥ではない。白い、細長い何かが土の中から無数に突き出し、足首に絡みついていた。植物の根に似ているのに、硬く艶がある。骨だ。指の骨のような形の白い根が、靴紐の隙間に食い込み、物理的に私をその場に縫い止めている。
私は声にならない声で喉を鳴らし、もがいた。強く引き抜くとメリメリと嫌な音がして白い根が少しだけ千切れた。断面から赤い液体が滲み出し、雨水に混じって流れていく。痛みはない。それが余計に怖い。地面の中で、何かがこちらへ寄ってくる気配がした。引きずるような重さではない。空気が押し寄せるような、湿った圧だ。
『シャリーン……』
金属音は、私が登ってきた小道の方から聞こえた。今度は空耳ではない。錫杖の遊環が鳴る音だ。誰かが登ってくる。深夜の雨の裏山に。私は祠に背中を押し付け、闇を凝視した。スマートフォンの光が雨のカーテンを照らし、その向こうに人影が滲んだ。
人の形はしている。だが、関節の角度がおかしい。両腕は背中側に回され、縛られているように見える。膝は折れ、正座のまま滑るように近づいてくる。顔は見えない。頭に汚れた布袋のようなものを被っている。布越しに、湿った呼吸音が聞こえる。ズズッ、ズズッ、と痰が絡んだような音。
私は理解しようとした。理解したくなかった。だが、目の前のそれは私の理解を待っていない。ただ、祠と私の間に割り込むように近づいてくる。
スマートフォンの画面が激しく明滅した。
『LINK可能』
私は縋るように画面を見た。リンク先候補は一つだけ。距離百五十メートル。方向南南西。名称は文字化けせず、くっきり表示されていた。
『■■家』
胸が潰れそうになった。さっき通り過ぎた黒い板塀の家だ。表札が読めなかった家。ポータル写真には、その家の「中」が写っていた。薄暗い土間。梁から一本の縄が垂れている。輪になった縄の中に、顔が映り込んでいた。
私だった。
ただし、今の私ではない。服が違う。髪型も違う。着物を着て、髷を結っている。それでも、顔だけが私と同じだった。写真の中の私は、こちらを見ていない。私の手元を見ている。スマートフォンではなく、私の右手の親指の位置を。
画面にポップアップが出る。
『承認しますか?』
『YES/NO』
NOはグレーアウトして押せない。私は息を吸おうとして、吸えなかった。布袋の影が、すぐそこまで来ている。袋の隙間から濁った眼球が覗いた。だがそれは私を見ていない。私のスマートフォン、その画面の中の「私」を見ていた。
皮膚の内側を冷たい指でなぞられたような感覚が首筋に走った。声ではなく、脳に触る圧が耳の奥に滑り込む。
見つけた。
そう言われた気がした。言葉として聞こえたのではない。ただ、そう解釈するしかない形で、意味が流し込まれた。
私の意思とは無関係に、右手の親指が痙攣したように動いた。
YES。
タップした瞬間、耳をつんざくノイズが頭蓋の中で鳴った。金属が裂ける音。光が噴き出し、画面から溢れ、雨の闇を切り裂いて一本の線になった。線はあの家の方角へ伸びていく。リンクが確立したのだと、画面が告げた。
だがそれは演出ではなかった。
私の身体が見えないワイヤーで引かれるように前のめりに崩れ、顔面が泥に埋まった。口の中にジャリッとした不快な感触と鉄錆の味が広がる。起き上がろうと腕に力を込めるが、地面が私を掴んで離さない。いや、掴んでいるのは土ではない。無数の白い指が、土の中から湧き出し、私の四肢を鷲掴みにしている。
背中に重みがのしかかった。布袋のそれが、私の上に這い上がってきたのだと思った。だが重みは「のる」重みではなく「沈む」重みだった。冷たくドロドロした何かが、泥水が染み込むように私の内側へ入り込んでくる。息ができない。胸郭が圧迫され、肋骨が軋む。
目の前に、泥に半分埋もれたスマートフォンが転がっていた。画面はまだ生きている。リンクの線が脈打つ血管のように明滅している。その光の中で、私は見てしまった。画面の端に、取得アイテムの一覧が小さく表示されている。その中に、見覚えのない項目がひとつ増えていた。
『……』
文字が読めない。だが、項目の横に小さな丸いアイコンがある。人の顔の輪郭。どこかで見た輪郭。私の輪郭だ。
視界が暗くなり、泥の底へ引きずり込まれていく。声が出ない。身体が動かない。雨音だけが遠くに残り、そこに金属音が重なる。シャリーン、シャリーン。錫杖の音。私は見えないが、確信できた。私の上にのしかかっていた重みが、すっと抜けていったのだ。抜けたのに、私は動けない。私の中に何かが居座ったままだからだ。
どれくらいの時間が経ったのか。
数秒かもしれないし、数十年かもしれない。時間の感覚が溶けている。ふと、顔にかかっていた圧が消えた。土が退けられたのだ。冷たい夜気が剥き出しになった私の皮膚の上を撫でる。目を開けることはできないのに、見ることはできた。眼球ではなく、意識が空間を撫でている。
穴の上から、誰かが私を見下ろしていた。逆光で顔は見えない。だがその男は、私が着ていたアウトドア用のレインウェアを着ている。手には泥に濡れたスマートフォンが握られている。
男は画面を操作し、静かに頷いた。雨音に混じって小さな電子音が鳴る。男が何か言った。言葉は聞こえなかったのに、意味だけがわかった。
帰れる。
男はスマートフォンをポケットに仕舞い、軽く屈伸をした。バキバキと、馴染みのない関節が鳴る。男は私を一瞥もしない。脱ぎ捨てた古い衣類でも見るように、無関心に背を向けた。
足音が遠ざかる。一歩ごとにシャリーン、シャリーンと錫杖の音が重なる。男の手にはスマートフォンしかない。それでも音が鳴る。音だけが、ついていく。
私はその音が、私の外からではなく、私の内側から鳴っていることに気づいた。気づいた瞬間、抵抗する余地がなくなった。気づいてしまった以上、私はもう私のままではいられない。
闇の中で思考が薄れていく。恐怖は遠のき、代わりに妙な安堵感が広がる。役割を果たしたという、理由のない充足感。私は祠の下の土の中で、静かにそこにいる。雨が降るたび、湿り気が私の輪郭を整え直す。ここは、誰かが触れるたび形を変える場所だ。
上で足音が止まった。
若い声がする。笑い声がする。何人かいる。彼らはスマートフォンを持っている。青白い光が、土の膜越しにちらつくのがわかる。彼らが何を見ているのか、私は見えない。それでも、画面を覗き込む角度だけは、昔から変わらない。
震動が伝わった。指が画面に触れたのだろう。私はそれを触れられたと感じた。皮膚ではなく、もっと内側の柔らかい部分を押されたように。
『ザザッ……』
ノイズが鳴った。誰かが短く笑った。
「……何これ」
その言葉が、雨音の向こうで揺れた。次の瞬間、私は自分の中から何かが小さく剥がれ落ちるのを感じた。痛みではない。熱でもない。ただ、少し軽くなる。自分が薄くなる。
彼らの足音が遠ざかる。笑い声が薄れていく。私は薄れていく。薄れながら、私は待っている。次の足音を。次の指先を。次の青白い光を。
雨はまだ降っている。生暖かい雨だ。十一月のはずなのに。季節がずれているのか、それともここだけがずれているのか。違いはもうわからない。わかるのは、また誰かが来るということだけだ。
上でまた、別の足音が止まった。別の息遣いが聞こえた。別の光が揺れた。私は、いま触れられる前の、あの一瞬を知っている。その一瞬だけは、いつも新しい。
押すな。と思った。思っただけだった。思うことができたのは、まだ私の名残が残っていたからだ。
押すな。
そう言いながら、私は押されるのを待っている。ここから出たいのか、ここにいたいのか、それすら決められないまま。決められないことが、ここでは一番安全だからだ。決めた瞬間に、私の代わりが決まる。
指先が触れる気配がした。青白い光が強くなった。雨音が少しだけ遠のいた。
そして、どこかで、錫杖が鳴った。
(了)
[出典:540 :名無しさん@涙目です。:2017/08/16(水) 00:08:37.94 ID:Ecmx4pOS0.net]