高校生の頃、一度だけ、母ちゃんが二人いたことがある。

その日は部活もなく、六時半ごろ家に帰った。門を開けて玄関に入ると、台所から包丁がまな板を叩く音が聞こえていた。夕飯の支度をしている音だったが、朝、母ちゃんは「今日はパートだから七時すぎるよ」と言って家を出たはずだった。早く上がれたのだろうと思い、「ただいま」と声をかけて二階へ上がった。
制服を脱いで居間へ行くと、ちゃぶ台にクリームどら焼きが四つ並んでいた。脇には小さな紙が置かれ、「ひとり二つまで」と母ちゃんの字で書いてある。うちでは、母ちゃんが家にいるときに菓子を出しておくことはまずなかった。俺が妹の分まで食べるからだ。それでも腹が減っていたので、二つ食べて茶を淹れた。
台所では母ちゃんが鍋をかき回していた。パーマのかかった髪も、丸い背中も、紺色のズボンも見慣れたものだった。こちらを向かないまま、「おかえり」と言った。それから、「シチュー、もうすぐできるけど、先に食べる?」と訊いた。
「いや、いま食ったからいい」
答えてから、ちゃぶ台の空いた皿を見た。母ちゃんがいる。それなのに、どうしてどら焼きが出してあったのだろう。
台所を見ると、母ちゃんはまだ鍋を回していた。さっきまで何とも思わなかった背中を、今度は正面から確かめる気になれなかった。すると母ちゃんが、「そうだね」と言った。
「亜美が帰ってきたら、三人でせえので食べようか」
何を「せえので」食べるのか、聞き返せなかった。
俺は立ち上がり、「ちょっと走ってくる」と言った。ちょうど学校ではマラソン大会が近かったので、言い訳としては不自然ではなかったと思う。母ちゃんが返事をしたかどうかは覚えていない。靴を履き、玄関を出て、門を閉めた。
そこで一度だけ振り返った。
家が真っ暗だった。
居間も台所も、さっきまで明かりのついていた窓がすべて暗くなっていた。俺はそのまま三十分ほど走った。家へ戻ると、門の前に母ちゃんが立っていた。両手にスーパーの袋を提げ、鍵を出そうとしているところだった。
「いま帰ったの?」
俺を見て笑った顔は、いつもの母ちゃんだった。
俺はなぜか、「シチューは?」と訊いた。
母ちゃんは少し考えて、「シチュー? 時間かかるから、今日は野菜炒めでいい?」と言った。
家に入り、台所の電気をつけた。流しには朝の食器が残っていた。鍋は使われていなかった。ちゃぶ台の上にも、どら焼きはなかった。
それから何年かして、俺も妹も県外へ進学した。あるとき母ちゃんが東京へ遊びに来て、二人で酒を飲んだ。その席で、初めてあの日の話をした。
母ちゃんはしばらく黙っていた。やがて、父親には当時ほかに女がいて、離婚の話まで出ていたのだと話した。家計のこともあってパートを始めたものの、慣れない職場ではいじめられ、毎日かなり追いつめられていたという。
「死んでしまおうかと思ったこともあったの」
そこで一度、母ちゃんは言葉を切った。
「あなたたちも一緒に……ね」
すぐに「もちろん、そんなことしないけど」と笑った。
それから母ちゃんは、俺が見たものについて、「あの頃の私の生霊だったのかもしれないね」と言った。
俺は笑えなかった。
父親が付き合っていた女は、その後、交通事故で亡くなったという。母ちゃんはそのことについて、「私は振られたのよ」としか言わなかった。それ以上のことを、俺は聞かなかった。
生霊だったのかもしれない。疲れていて、俺が何かを見間違えたのかもしれない。けれど、そう考えるたびに一つだけ引っかかる。
あの日の母ちゃんは、俺にシチューを勧めたあと、妹が帰ってくるのを待っていた。
三人で、せえので食べるために。
[出典:327 :本当にあった怖い名無し:2019/06/19(水) 02:06:44.51 ID:PvXN2RhE0.net]