暖房の乾いた風と、廊下に漂うアルコールの匂いが混ざり、胸の奥に薄い膜が張りついたまま剥がれない。
最初に見たのは、登校前の自室だった。視界の端を、細い黒い線が掠めた。糸のように張りつめ、次の瞬間には光の粒にほどけて消えた。瞬きをすれば元の部屋に戻る。それでも、そこだけ温度が違う。皮膚の下に冷えが差し込み、額の奥がきゅっと縮んだ。
夕方、同じものが廊下の天井近くに現れた。蛍光灯の光を遮るように揺れる黒い膜。輪郭は定まらず、けれど確かに“ある”。足首に冷たい空気が絡みついた。
母に話すと、包丁を置く音が鋭く響いた。
「また変な番組ばかり見てるからでしょ」
声は硬く、私の言葉を踏みつけるようだった。コレクションのディスクや古い雑誌が段ボールに放り込まれる。袋の口が縛られた瞬間、耳鳴りが止み、代わりに部屋の温度が落ちた。
影を見たあとは、決まって頭の奥が熱を持った。脳の芯を指で押されているような鈍い拍動。朝になっても体は重く、背中に見えない手が置かれたまま剥がれない。
学校で倒れたのは二限目だった。黒板が波打ち、チョークの粉が白い靄になる。立ち上がろうとした瞬間、床が遠ざかり、視界の中心に黒い輪が縮んでいった。
目を開けると、白い天井がわずかに震えていた。消毒液の匂い。点滴の滴る音。腕は湿った布のように重い。
カーテンの向こうに、母の影が立っている。そう思ったとき、足先にあの冷えが戻った。看護師の声が近づく。
「しばらく安静にしていれば大丈夫ですよ」
やわらかな声音の背後で、母が息を呑む気配がした。
夜、巡回が終わったあとに目を開けると、枕元の空気がわずかに歪んでいた。そこに、輪郭の崩れた影が立っている。足は床につかず、空気の縫い目のように浮いている。
声は出ない。体も動かない。影がゆっくり近づき、頭の上に重なるように覆いかぶさる。こめかみの奥が熱を持ち、視界が粒子状に崩れた。
そのとき、私の手が動いた。意思とは別の深い層から引かれるように。指先が影に触れた瞬間、影は怯むように震え、薄煙のようにほどけた。
胸の奥に、何かが入り込んだ感覚が残る。自分とは違う拍動が、心臓の裏側でひっそりと脈打っている。
翌朝、母が私の手を握ったとき、その温度の奥にもう一つの冷えが混じっていた。皮膚の下から立ち上るような温度。母はそれに気づかない。
「気づいてあげられなかったのね」
その声は以前より柔らかい。だが、壁に映る母の影は、動きとわずかにずれていた。首の角度が、母の姿勢と一致していない。
胸の奥の異物感は、いつの間にか薄れていた。代わりに、母の背後の空気が濃くなっている。
「もう大丈夫だから」
母はそう言う。笑っているはずなのに、瞳の奥が暗い。影は壁に伸び、ほんの一瞬、昨夜枕元に立っていた輪郭と重なった。
私は目を逸らす。判断できない。影が消えたのか、移ったのか。そもそも、最初から私の外にあったのか。
母が病室を出た瞬間、床に落ちる影の縁がぴたりと止まった。胸の奥の拍動も、同時に消える。
入れ替わったのは、どちらなのか。
退院の日、廊下を歩く母の背中を見つめながら、私は自分の影を確かめた。足元に伸びる輪郭は、正しく動いている。
けれど、母の影だけが、曲がり角で一拍遅れてついてきた。
振り返った母の口元が、わずかに歪む。笑ったのかどうか、判別がつかない。
その瞬間、私の胸の奥で、消えたはずの拍動が一度だけ、静かに返事をした。
影は消えていない。
ただ、私の視界から外れただけだ。
[出典:死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?21/127 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/10/25 13:31]