真夜中に帰宅して、襖を開けた瞬間、自分が自分と目を合わせた。
群馬県に住む吉野さんが大学生だった頃の話だ。猛暑の夜、終電を逃し、郊外の実家まで一時間以上歩いて帰ったという。古い瓦屋根の平屋で、庭の向こうには低い山がある。夕暮れどき、その山影だけがわずかに歪んで見えることがあったと彼女は言ったが、理由は誰も知らない。
玄関を開け、家族を起こさぬよう廊下を進み、自室の襖に手をかけた。自分の部屋の匂いがする。汗ばんだ手で襖を引く。
畳に敷いたベッドの上に、誰かが寝ていた。
最初は、視界がぶれただけだと思った。だが違う。仰向けに横たわる女の輪郭は、街灯の明かりに縁取られている。ロングヘアが枕から流れ落ち、見慣れたTシャツを着ている。閉じたまぶた、わずかな呼吸。顔は、吉野さん自身だった。
息を呑んだ瞬間、ベッドの上のそれが目を開けた。
暗闇の中で、確かに視線が重なった。向こうも驚いたように眉を寄せた。ほんの一拍、互いに動けなかった。次の瞬間、空気が揺らぎ、そこにあったはずの身体は、音もなく消えた。
布団のへこみも、枕の乱れもなかった。
翌朝まで眠れなかったという。だが恐怖は、あの夜で終わらなかった。
「消えたのは、どっちなんだろうって」
彼女はそう言った。
自分が帰宅したと思っているこの身体は、本当に“帰ってきた側”なのか。それとも、ベッドに寝ていた側が立ち上がり、今こうして語っているのか。思考はそこで止まる。どちらにしても、もう一方は消えている。
兄に打ち明けたのは数日後だった。何も言わずに聞いていた兄は、やがてこう言った。
「髪、切ってこい」
理由は説明しなかった。ただ、「同じなら困るだろ」とだけ付け加えた。
吉野さんは美容院へ行き、ロングヘアをばっさり切った。鏡の中にいる女は、確かにあの夜ベッドで見た“自分”とは違うように見えた。首筋が露わになり、耳の形が強調される。だが、安心は長く続かなかった。
切った直後、鏡の中の自分が、ほんのわずかに瞬きを遅らせた気がしたからだ。
それ以降、彼女は髪型を変えていない。二十年経った今も、同じショートカットのままだ。理由を問われると、彼女は曖昧に笑う。
「変えたら、揃っちゃう気がするから」
何が揃うのかは言わない。
彼女の部屋には鏡がない。洗面所の鏡には、布がかけられている。あるとき共通の友人がその布をめくった。鏡は普通にそこにあった。ただ、友人の話では、映った自分の後ろに、もう一人立っていたという。
振り返っても、誰もいない。
もう一度鏡を見ると、今度は一人だけだった。
その話をした友人は、それ以上は語らなかった。吉野さんも、否定しなかった。
夜、コーヒーを飲みながら彼女が言った。
「たまに夢に出るんだよ。襖を開ける夢」
夢の中では、必ずどちらかが立っているという。立っている側が、眠っている側を見下ろしている。視線が合う直前で、目が覚める。
「次は、ちゃんと最後まで見るつもり」
そう言って、彼女はカップの底をじっと見つめた。
その目が、こちらを見ているのか、それとも背後の何かと視線を合わせているのか、判断がつかなかった。
あの夜、襖を開けたのは、本当に彼女だったのだろうか。
[出典:397 :可愛い奥様:2006/06/08(木) 17:49:17 ID:CpVddicC]