群馬県に住む吉野さん(仮名)から聞いた話。
大学時代の夏、帰省中の彼女が体験したという。郊外の住宅街、古い瓦屋根の平屋。小さな庭の向こうに見える山影が、夕暮れになると奇妙に歪んで見える、そんな土地に建つ家だった。
その日、猛暑のせいで終電を逃し、徒歩で深夜の帰宅となった。汗でシャツは肌に張り付き、吐く息には土埃が混じっていた。玄関を開け、靴を脱ぎ捨てて廊下を歩き、自室の襖を開けると——畳に敷かれたベッドの上に、自分が寝ていたという。
照明は落ちていたが、カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、ベッドに横たわる「自分」を薄ぼんやりと照らしていた。仰向けに寝ている。閉じたまぶた、胸の上下運動、まるで死んでいるようでもあり、穏やかな眠りのようでもあった。
足がすくんだ。息を呑むと同時に、ベッドの「それ」が、ゆっくりと目を開けた。視線が、合った。確かに目が合ったのだ。向こうも驚いたように眉をひそめた。そして一瞬後、まるでそこに最初から何もなかったかのように、影も形も残さずに、すっと消えた。
誰にも言えなかった。言葉にすれば、それが現実になってしまうような気がした。けれど、頭の中は次第に恐怖に支配されていった。「次は、ベッドにいる時に、あれが来るんじゃないか」「その時、自分が消えるのではないか」。思考は堂々巡りを繰り返し、気が狂いそうになった。
そんな様子に気づいたのか、兄が声をかけてきた。「おまえ、なんかあったのか?」
泣きながら打ち明けた。兄は少し黙っていたが、すぐにこう言った。
「髪、切ってこい」
冗談かとも思ったが、兄の顔は真剣だった。
「まるっきり同じおまえが消えたんなら、違うおまえになればいい」
理由はわからなかった。ただ、その言葉には不思議な説得力があった。背中を押されるように、美容院へ向かった。閉店間際の店に滑り込み、ロングヘアをばっさりショートに。
鏡に映る自分は、確かに「昨日の自分」ではなかった。首筋が露わになり、耳たぶが恥ずかしいほどに露出した見慣れぬ姿。それでも、なぜか少しだけ安心した。
以後、自分に再び遭遇することはなかったという。日常は、何事もなかったかのように続いた。あの日以降、「向こう側の自分」は、現れない。
けれども、これは彼女が二十年後に語った話である。その髪型は、あれ以来ずっと変えていない。ショートカットを守り続けているのだ。
理由を尋ねると、彼女は静かに笑って言った。
「戻したら、また来るかもしれないから」
それを聞いたとき、不意に背筋がぞくりとした。
彼女の部屋には、今も鏡が置いていない。鏡を覗き込んで、あちら側の「自分」と目が合ってしまうのが、どうしても怖いらしい。鏡台の上には、古びた布がかけられたままだ。
あるとき、彼女の家を訪れた共通の友人が、ふとした拍子にその布をめくったという。するとそこには、何も映っていない鏡があった。
自分の姿が、映らなかったというのだ。
「……あれ、今でもたまに夢に出るんだよね」
吉野さんはそう言って、夜のコーヒーを一口すすると、カップの底をじっと見つめていた。
その目が、まるで誰かと目を合わせているようだったのが、妙に記憶に残っている。
[出典:397 :可愛い奥様:2006/06/08(木) 17:49:17 ID:CpVddicC]