これは、ダムカードを集めている知人から聞いた話だ。
その人は休日になると、車で遠くのダムを回っていた。目的地はダムそのものというより、管理所や道の駅や観光施設でもらえる小さなカードだった。写真と諸元が印刷されている、あれである。
その日は群馬の山のほうへ行った。
みなかみのダムをいくつか回り、最後に上野村の奥にあるダムへ向かった。カードは日帰り温泉の受付でもらえることになっていたが、着いた時点で夕方五時を過ぎていた。
受付の女の人が、カードを渡しながら言った。
「今日、もう帰るんですか」
「横浜まで戻ります」
そう答えると、女の人は少しだけ手を止めた。
「なら、早めに大きい道へ出たほうがいいですよ」
ありふれた注意に聞こえた。山道は暗くなると危ない。それだけの話だと思った。
彼の車にはナビがなかった。古い車で、地図を助手席に置いて走るのが好きだったという。スマートフォンも圏外になりやすいから、最初から当てにしていなかった。
温泉を出たころには、山の上だけに夕焼けが残っていた。
それもすぐ消えた。
道は細く、白線もところどころ途切れていた。ガードレールの向こうは真っ黒で、窓を少し開けると、沢の音だけが低く聞こえた。ヘッドライトの先に浮かぶのは、濡れたアスファルトと、カーブミラーと、たまに現れる落石注意の看板だけだった。
何度か分岐を過ぎた。
地図では、そろそろ大きな道に出るはずだった。けれど道は広くならない。集落も見えない。街灯もない。
おかしいと思ったころ、小さな案内板があった。
板は古く、矢印だけが白く残っていた。文字は読めなかったが、矢印は右を指していた。
彼は右へ曲がった。
その先で、白い車に追いついた。
人の車を見るだけで、こんなに安心するのかと思ったという。白いセダンだった。古い型に見えた。テールランプが二つ、闇の中で淡く揺れていた。
彼は少し車間をあけてついていった。
ところが、その車は速かった。
こんな山道で出す速度ではない。カーブの手前でもほとんど減速せず、六十キロ前後で滑るように走る。無理についていく必要はなかったが、離されると二度と戻れない気がした。
バックミラーに光が映ったのは、その少しあとだった。
後ろにも車がいた。
いつのまにか、彼の車は二台の車に挟まれていた。前は白いセダン。後ろはライトだけで車種は分からない。こちらが速度を落とすと、後ろの車も詰めてくる。前の車から離れようとすると、不思議なほどカーブが続いて、また同じ距離に戻る。
十分、二十分、三十分。
時計を見たが、時間の感覚がずれていた。燃料計だけが少しずつ下がっていく。
彼はラジオをつけた。
山の中だから、まともに入るとは思っていなかった。けれどすぐに音楽が流れた。
古い曲だった。
「太陽・神様・少年」。
子どものころ、母親が台所でラジオを聞きながらよく口ずさんでいた曲だ。なつかしさで、少しだけ肩の力が抜けた。
曲が終わる前に、男の声が入った。
「それでは、今、この曲をどうぞ」
彼はハンドルを握ったまま固まった。
その声を知っていた。子どものころ、日曜の午後に聞いていた番組の声だった。けれど、そのパーソナリティはもう何年も前に亡くなっていたはずだった。
雑音はなかった。
声は、彼の車の中だけに直接置かれたみたいにはっきりしていた。
その直後、ヘッドライトの端に標識が浮かんだ。
御巣鷹山。
その文字を見た瞬間、体の中の温度が下がったという。
前の白いセダンのナンバーが見えた。
・・49。
反射的にバックミラーを見た。
後ろの車のナンバーは、・・42だった。
彼は数字の意味を考えまいとした。考えたら終わる気がした。考えずに、ただブレーキを踏んだ。
後ろの車も止まった。
前の白いセダンは、少し先で止まった。テールランプが赤く滲んでいる。道はまだ先へ続いていた。だが、その先だけ霧が濃く、ライトが吸われるように消えていた。
彼は引き返そうと決めた。
細い道で何度も切り返し、車の向きを変えた。後ろにいた車は動かなかった。白いセダンも動かなかった。ただ、二台ともエンジン音がしなかった。
ようやく車体が反対を向いたとき、正面の闇にバイクのライトが現れた。
赤い古いバイクだった。
大きな丸いライト。角張ったタンク。たぶんCB750だ、と彼は思った。バイクは道の真ん中で止まっていた。乗っている男はフルフェイスではなく、古い半ヘルのようなものを被っていた。
男がこちらを見た。
顔が濃かった。
冗談みたいに濃い顔だった、と彼は言った。鼻筋が通っていて、目が深く、当時の映画俳優みたいだった。けれど、不思議と怖くはなかった。
男は何も言わなかった。
ただ、片手を上げて、来た道とは別の細い脇道を指した。
彼はその方向へ車を向けた。
バイクは先に走り出した。速度は遅かった。白いセンターラインもない道を、赤いテールランプが一定の距離で先導した。さっきまでなかったはずの街灯が、一本、また一本と現れた。
五分ほど走ると、見覚えのある国道に出た。
彼は息を吐いて、路肩に車を止めた。
バイクに礼を言おうとしたが、もういなかった。曲がれる道はなかった。エンジン音もしなかった。
その夜、彼は何度も休憩しながら横浜へ帰った。
家に着いてからも眠れず、台所で母親にその話をした。御巣鷹山の標識のこと。白い車と後ろの車のこと。ラジオの声のこと。そして最後に、赤いCB750の男の話をした。
母親は途中まで黙って聞いていた。
「その人、顔が濃かった?」
そう聞かれて、彼は笑った。
「濃かった。郷ひろみより濃かったかも」
母親は笑わなかった。
しばらくして、押し入れの奥から古いアルバムを出してきた。彼がほとんど見たことのないアルバムだった。
そこに、一枚だけバイクの写真があった。
赤いCB750の横に、若い男が立っていた。鼻筋が通っていて、目が深かった。冗談みたいに濃い顔だった。
「お父さんよ」
母親はそう言った。
彼の父親は、彼が生まれる前に事故で死んでいた。遺品は父方の祖母がほとんど引き取ってしまい、写真もあまり残っていなかった。彼は父親の顔を、ちゃんと覚えていなかった。覚えるほど見ていなかった。
その晩だけは、助けられたのだと思ったという。
亡くなった父親が、あの山道で自分を見つけて、帰り道まで連れてきてくれたのだと。
ただ、話はそれで終わらなかった。
後日、彼はどうしても気になって、母親にもう一度アルバムを見せてもらった。
赤いCB750の写真の裏に、父親の字で日付が書かれていた。
事故の一週間後の日付だった。
母親に聞くと、そんなはずはないと言った。父親はその日にはもう火葬されていたし、バイクも事故で廃車になったはずだった。
写真を撮れる人間はいなかった。
彼は今もダムカードを集めている。
ただ、山奥のダムへ行くときだけ、必ずガソリンを満タンにする。暗くなる前に帰る。ラジオはつけない。古い白いセダンを見ても、絶対についていかない。
それでも、ときどきバックミラーに赤いライトが映ることがあるという。
そのとき彼は、小さく言う。
「ありがとう、オヤジ」
そう言うと、赤いライトは少しだけ近づく。
まるで、聞き返すみたいに。
[出典:http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1410191336/]