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短編 ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間 n+2026 オリジナル作品

🚨正しい位置 nc+

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最初のメールは、夜中に届いた。

件名は空欄で、差出人の名前だけが画面の上部に淡く表示されていた。通知音は鳴らなかったはずなのに、なぜかその瞬間、目が覚めた。理由は分からない。ただ、起き上がって受信トレイを開いていた。

文章は丁寧で、礼儀正しく、どこにも非礼なところはない。自己紹介も簡潔で、用件も明確だった。私の歌を聴いたこと、声に透明感があること、いくつかの曲を気に入ったこと。褒め言葉が並んでいた。

だが、読み進めるうちに、妙な感触が残った。

褒め方が、評価というより観察に近い。音程の取り方、ブレスの位置、言葉の切り方。どれも的確で、外れてはいない。ただ、それらは私自身が意識していない部分だった。まだ試してもいない方向性や、考えたことのない変化についてまで、当然のように触れている。

「今の路線もいいですが、次は少し崩した方が刺さると思います」
「その声なら、無理に感情を乗せなくても成立します」
「私は、そういうのを聴いてみたいな」

提案の形をしているが、どこか決定事項のようだった。こちらの選択肢というより、既に定められた未来を確認させられている感覚に近い。

違和感はあったが、害意は感じなかった。よくいる熱心なリスナーだろう。そう判断して、返信はしなかった。

一週間後、二通目が届いた。

また件名は空欄だった。冒頭の挨拶は省かれている。

「前回のメール、届いていますよね」

責める調子ではない。淡々と、事実確認のように書かれている。

「返信がないので、少し心配しています」
「体調を崩されていないといいのですが」

心配という言葉が、やけに重かった。私の生活を想像し、その中に勝手に不安を配置している。その距離感が、じわりと近い。

その翌日、三通目が届いた。

「前回より、半音ほど下がっていましたね」
「息の抜き方が、少し違っていた気がします」

何の話か、一瞬分からなかった。だが、すぐに思い当たる。前夜、非公開のまま録音していたデモ音源だ。まだ誰にも聴かせていない。ファイルはローカル環境にしか存在しない。

背中が冷えた。

聴いた、と書いてはいない。だが、結果だけが書かれている。否定できない精度で。

四通目には、歌詞の修正案が添えられていた。私が仮で書いたまま放置していたフレーズが、原型のまま引用されている。削除候補に入れていた言葉まで含めて。

五通目では、こう書かれていた。

「あなたは、自分の声の使い方を、まだ誤解しています」

誤解しているのは私で、正しい位置は相手が知っている。その前提が、文面全体を支配していた。

それ以降、返信していないにもかかわらず、メールは届き続けた。時間帯は、毎回深夜二時前後だった。私は二時三分だと思い込んでいたが、ある日、ふと時計を見ると二時五分だった。いつもと同じ内容なのに、少しだけズレている。そのズレが、なぜか不安を増幅させた。

内容も変わっていった。

「今日は少し不安定でしたね」
「声が逃げていました」
「でも大丈夫、戻せます」

何を基準に言っているのか分からない。それでも、妙に具体的で、否定しきれない言い回しだった。自分でも気づいていなかった違和感を、先に言葉にされている気がした。

決定的だったのは、ある一文だった。

「あなたが今、画面を閉じようとしているのが分かります」

その瞬間、マウスを握る手が止まった。確かに、閉じようとしていた。返信画面を開くことすらせず、ただ受信トレイを閉じるつもりだった。

それ以降、メールは来なくなった。

安堵したのも束の間、今度は別の場所で、同じ文章を見るようになった。動画のコメント欄、匿名掲示板、使っていないはずの共有フォルダに残されたテキストファイル。

文末は、いつも同じだった。

「あなたに最適化された、美しい人生を」

ある夜、録音中に気づいた。ヘッドフォンの奥で、自分の声に、わずかなズレが混じっている。歌っていないはずの音程が、確かに存在している。

そのズレは、不快ではなかった。むしろ、整っているように聞こえた。

誰かが、正しい位置に戻そうとしている。

(了)

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