拘置所にいたことがある。
たったの四ヶ月、だが、あの灰色の空間は時間の長さと無関係に人間の中の何かを削っていく。
八人部屋。みんな起訴されたばかりか、裁判中かのどちらかで、懲役と違って毎日が宙ぶらりんだった。朝起きて、点呼、飯、運動、また飯、読書、将棋、飯、点呼、寝る……。
それだけの日々。
暇だからよく喋るようになる。誰もがそれなりに罪を背負ってて、だからこそ逆に変な遠慮がない。少しずつ、余罪やら嘘やら、外じゃ口にしないような話が笑いとともに漏れてきた。
その中に、一人だけ妙に浮いている男がいた。
五十代くらいの、猫背の盗人。
ホームレス同然、住民票なし。少年刑務所の経験もあると言っていたから、ずいぶん若い頃からこの社会の輪郭には触れてこなかったのだろう。
最初は怖い人かと思った。
だが実際は、やわらかな物腰で、声も小さい。俺とよく将棋を指した。詰め将棋に強く、無言でこちらの手を封じてくるのが妙に印象に残っている。何かを隠しているような、うす笑いの裏に張りついた沈黙。
判決が近づいたある日の夕方、将棋の途中でふと彼が言った。
「君は執行猶予になるよ。顔にそう書いてある」
冗談かと思って笑ったが、彼は笑い返さず、淡々と続けた。
「だからさ、お願いがあるんだ。君、外に出たらナンバーズ4を買ってほしい。四回分。数字は、これ」
差し出されたノートには、黒いペンでびっしり数字が書き込まれていた。縦に、横に、斜めに……。まるで数字が繁殖しているようだった。
「これは……」と尋ねると、
「かずだま」と彼は言った。
「数字にはね、魂があるんだよ。動くんだ。それを見る目が僕にはある。この月、この週、この組み合わせなら……ストレートで当たる」
「じゃあ自分でやれば?」
「無理。僕、出られないからね」
笑っていたが、どこかそれが本心とも思えなかった。彼の目にはいつも、手に負えない世界を見ている人特有の濁りがあった。
「当たったら、差し入れを頼むよ。そっちも、ほら」
俺用の数字も渡された。彼のが当たったら、四回分だけ買えと。時期は教えるから、と。
半信半疑。というか、五分疑って五分忘れていた。
執行猶予。
俺は釈放され、社会に戻った。
不思議なもので、外の空気は、自由であると同時に、怖かった。
規則で縛られた日々に慣れていたから、自分で選ぶ、ということが億劫だった。
それでも、一ヶ月後、ふと彼の数字のことを思い出して、売り場に向かった。小さなメモに書いてあった四桁。躊躇しながらマークシートを塗りつぶした。
……当たった。
ストレート。百六十万円ちょっと。
足が震えた。これは現実なのかと。
言われた通り、次は俺の数字を四回分買った。三回目で当たった。こっちは百九十万円。合計三百五十万くらい。まるで夢だった。
これは、返しに行かねば。
彼に。
恩人に。
拘置所へ差し入れを持って向かった。
しかし、受付で言われた。
「その名前の方は、現在おりません」
「じゃあ、移送とか……?」
「記録にありません。住所不定の方は……たまに、処理が難しくて」
面会も、差し入れも、できなかった。
存在が、霧のように消えていた。
記録にない。
そんなこと、あるのか?
あれ以来、俺は毎週金曜日になると、ナンバーズ4を買っている。
「かずだま」の計算方法は教わった。
一度では覚えきれなかったから、出る前に何度も聞いて、ノートに書き写した。
最初の年はよく当たった。ボックスばかりだったけど、半年に一度くらいストレートが来る。
ただ、年を追うごとに「数字」が弱ってきてる気がする。
魂が、擦り切れていくように。
計算しても、あの頃みたいにビシッと数字が浮かばない。
もしかしたら、あの男の目にしか見えなかったものがあるのかもしれない。
俺は、それを真似してるだけ。
最近はもう、お小遣い稼ぎというより……何かに縋ってるだけなのかもしれない。
でもやめられない。
月に一度くらい、彼の夢を見る。将棋盤を挟んで、俺の歩をじっと見つめている。
その顔は、少しずつ誰か別のものに似てきている。
九月十一日が近づいている。
……今年も、金曜日だ。
[出典:652 :本当にあった怖い名無し:2020/10/03(土) 09:49:53.96 ID:ItQyJ+1u0.net]