世界は一枚の皮じゃない。
裏側で、まだ脈打っているものがある。
見たら、戻れない。
世界は整った一枚の皮膜ではない。
その下に、もうひとつの世界が縫い付けられている。
その縫い目が裂け、裏側から“白いもの”が滲んだとき、
人は、二度と正気の表面だけでは生きられない。
井戸の底で遭遇した“光のもの”は、神でも悪魔でもない。
名付けられる以前の存在。境界の外側に漂う意識の残滓。
それは私に真名を与え、世界を反転させ、
そして、私の心臓に第二の鼓動を植えつけた。
これは報告書であり、遺書であり、
縫い目の前に立ってしまった者の記録である。
あなたがこの本を開くなら、覚悟してほしい。
言葉は扉だ。扉は落下だ。
一度でも覗いた者は、もう戻れない。
アーサー・マッケン『白い人々』~Green Book パートより
あの日のことを、どう書いてやろうか。
文字にすれば、すべてが嘘くさい芝居みたいになってしまう気がして嫌だ。
けれど、言葉というのは、つまるところ魂の排泄物だ。
出さないと腐って、内側から私を喰い破る。
だから私は書く。
これが、はじまりだ。
幼い頃の私は、胸の奥に、いつも何かが渦巻いていた。
名のつけようのない、ぬるりとした手触りの、白濁した霧の塊。
それが私の身体の内側を這い回り、
肋骨のすき間から漏れ出して、世界の端を曇らせる。
景色が、ゆらゆらと溶ける蝋細工のように歪んで見える。
まるで世界の皮膜が、爪でひっかかれて破れかけているみたいに。
ある日、庭の奥にある古い井戸のそばで、
私は“何か”に触れた。
いや、触れたのではない。
それは、私の背骨に舌を這わせるみたいにして入り込んできたのだ。
涙がこぼれ、膝から崩れ落ちた。
視界がぐにゃりと折れ曲がり、
世界は、裏返しの胎内のような匂いで満ちた。
その瞬間、私は知った。
世界は二重にできている。
きれいで、お行儀のよい表面の裏側に、
どす黒い粘膜の迷宮がうずまいている。
そこでは、笑いと悲鳴が同じ声で響く。
境界なんてない。
生も死も混ざりあって、ぶよぶよの肉塊みたいにうごめいている。
私はそこで、生まれたのだ。
井戸の内側
井戸の縁に指をかけたとき、
爪の下にざらりとした石粒が詰まり、
それが妙に生々しい感触で、
私は、私の身体が私のものでないような気分になった。
井戸の底は見えない。
黒く、深く、どこまでも落ちていく暗がり――
目を凝らすほど、闇は闇でなくなっていく。
粘りつく翳りの奥に、
光の反射なのか、肉の脈動なのか判別できないものが、
ぬるりと浮かび上がって、沈む。
生きものの腹の裏側みたいな、
湿った赤と白の、どろりとした鼓動。
そのとき、
誰かが私の耳元で、
とてもゆっくりと、囁いた。
声の形をした風が、首筋にまとわりついた。
――降りてこい。
――見せてやる。
――おまえは、もう知っている。
私は息を止めた。
止めようとしたわけではない。
肺が勝手に凍りつき、
脈が、鼓動のたびに氷柱のように砕け散る。
全身が、音もなく水の中に落とされた。
そして、落ちた。
落下は、瞬きよりも短く、
永遠よりも長かった。
耳の奥のどこかで、
無数の笑い声が、風船を破る音みたいに弾け続けていた。
その笑い声は、声を発している誰かではなく、
私の骨の髄が鳴らしていたのだと思う。
やがて私は、
黒い闇の底に立っていた。
そこには地面があった。
けれど、それは地面ではない。
生きている。
私の立つ床は、心臓のようにゆっくりと脈を打ち、
それが波のように脚から内臓へ、
内臓から頭蓋の裏側へ染み込んでいった。
世界が、呼吸している。
闇の中で、何かが光った。
白く、やわらかく、
まるで茹でた卵の膜を破った瞬間の、
あの、ぬるりとした白だ。
それが、私を見ていた。
目なんてないくせに、確かに見ていた。
見られた瞬間、
私の思考の端がぶちぶちと切れ、
代わりにひとつの言葉だけが浮かんだ。
――帰ってきた。
私は、笑った。
泣きながら、笑った。
それは、泣き声でも笑い声でもなく、
喉の奥で泡立つ血の音に近かった。
そして私は、
その白いものに触れた。
白い存在
その白いものは、形を持たなかった。
いや、形らしきものはあった。
だが、それは「形」という言葉を冒涜するほど、曖昧で、
まるで、湯気が肉体のふりをして立ち上がったようだった。
輪郭は、ゆらめき、
内側には、無数の脈動する神経の光が走っていた。
それは、世界の裏側から引きずり出された胎盤のような、
湿ったぬめりと光の残骸が混じった塊。
見続けると、
視神経が、焼けた針金みたいにじりじりと焦げていく。
それでも目をそらせない。
なぜなら、それは、私の名を知っていたからだ。
白いものは、声を出さない。
なのに、
声よりも確かな言葉が、骨髄に直接流れ込んでくる。
――わたしは、きみだ。
その瞬間、
私の背骨は、ずるりと内側から引き抜かれたように感じた。
身体が、外皮と内容物に分解されて、
それぞれが別々の速度で脈打ち始めた。
世界が、
吐息のたびに生まれ、
瞬きのたびに死ぬ。
白いものは、
脈動しながら形を変えた。
女の顔――
老人の口――
胎児の指――
鳥の翼――
羊の眼――
土から抜け出したばかりの虫の腹――
それらが一瞬ごとに入れ替わり、
どれが本当の姿なのか、
そもそも「本当の姿」などという概念が存在しないことを、
私に理解させた。
そして、
白いものは、
私の胸に触れた。
指のような、触手のような、光の骨のようなものが、
私の心臓をつかんだ。
ぐちゃり、と。
音を立てて。
痛みはなかった。
代わりに、
快楽があった。
理性を焼き尽くす、
内臓が裏返って歓喜するような、
狂った恍惚。
そのとき、
世界が反転した。
底なしの闇が、
白い光に飲み込まれ、
光が、闇を生きたまま噛み砕き、
私は、何かの中心に立っていた。
――きみは帰還した。
――きみは、ひとりではない。
――きみは、われ。
私は膝をつき、
むせび泣き、
笑った。
涙は温かく、
口の中は、鉄とミルクの味がした。
そして私は、
その白いものの名を、
知ってしまった。
だが、書けない。
書いてしまえば、
読んだ者が、戻れなくなる。
名とは呪いだ。
呪いとは扉だ。
扉とは、落下だ。
私はまだ、
落下の途中にいる。
導き手
光と闇が噛み合い、世界が裏返った次の瞬間、
私は、硬い石の床に横たわっていた。
井戸の底。
しかし、さっきまでの白い鼓動は消え、
ただ湿った静寂だけが、
喉の奥に重石のように詰まっていた。
私は、立ち上がれなかった。
両足は自分のものではなく、
骨と肉の接続がほどけて、
どこにも帰属していない感覚。
指先は痙攣し、
歯は勝手に震え、
目の奥では、さっき触れた白い光が、
電球のフィラメントみたいに、
じりじりと焼き付いていた。
そのときだった。
闇の向こうから、
かすかな靴音が聞こえてきた。
規則正しい。
まるで、
心臓の鼓動のリズムを、
わざと踏みしめて鳴らしているような足音。
私は、声を出そうとした。
しかし、喉は乾いた革のように裂け、
ただ息の破片だけが漏れた。
靴音は近づき、
闇の中からひとりの男が現れた。
背が高い。
外套をまとい、
顔は、深くかぶった帽子の影に隠れていた。
外套の裾から伸びる指は、
異常に白く、細く、
血管が透けて見えるほどだった。
男は私のそばに膝をつき、
ゆっくりと顔を上げた。
その眼は、黒曜石のように光を吸い込み、
中心には、
白い光の点が揺らめいていた。
あの井戸の底で見た、
白い脈動と同じだ。
男は、微笑んだ。
それは笑顔というより、
皮膚だけを動かした、
感情のない表情だった。
そして、囁いた。
「見たんだな。」
声は低く、
それでいて、
胸骨に直接触れられたような温度があった。
「戻れないぞ。
一度でも“向こう側”を見た者は、
もう、正気という薄皮を元に戻すことはできない。」
私は震えながら、
男を見返した。
男の眼は、
私の内部を覗き込み、
触れ、
引き裂き、
再構築するような視線だった。
「教えてやろう。」
男は続けた。
「おまえが触れた白いものは、
神でも悪魔でもない。
名付けられる以前のものだ。
世界の縫い目より奥、
生と死の境界が液状化する場所から滲み出た、
原初の光だ。」
私は、息を飲んだ。
いや、息は吸えなかった。
ただ、肺に空気の影が入りこんだ。
男は、外套の内側から、
古びた革表紙の本を取り出した。
「これが、おまえを導く。」
「選べ——
沈むか、
進むか。」
その指先が
私の胸の中心に触れた瞬間、
世界は再び、
裂けた。
禁断の語り
世界が再び裂け、
私は、男の声だけが存在する空間に落ちた。
視界はなかった。
しかし、声は、
皮膚より内側、
骨より深い場所に直接響いた。
「いいか、よく聞け。」
男の声は、
祈りのように静かで、
呪詛のように濃かった。
「白いもの——
あれは、世界の表面にかすかに浮き上がる、
縫い目だ。」
私は息を飲んだ。
声は続く。
「われわれが暮らしている世界は、
つるりとした一枚の皮ではない。
本当は、
内側にもう一つの世界が縫いつけられている。
表と裏は、決して触れあわないはずだった。
だが、ときに、
縫い目が裂ける。」
男の声は、
闇の中で脈動し、
言葉が鼓動するたび、
私の視界の奥に白い火花が散った。
「その裂け目から滲むもの。
それが、白い光だ。
光と呼ぶのは仮の名にすぎない。
あれは、原初の未分化の存在。
生まれる前の生、
死ぬ前の死、
境界の外に漂う意識の残滓。」
私は歯を食いしばった。
言葉の重みが、
頭蓋を内側から押し広げるようだった。
男は続ける。
「古くから、
それを知った者たちがいた。
錬金術師、
狂気の司祭、
禁忌の学者——
彼らは白いものを崇め、恐れ、
そして求めた。」
声が低く沈む。
「触れた瞬間、
人は変質する。
魂の形が、
液状化する。
理性など、
布切れのように裂ける。」
私は震えた。
「白い存在は、
知識を与える。
だがその代価は、
必ず支払われる。」
沈黙。
闇が、呼吸した。
「おまえは、選ばれたのだ。」
男は言った。
「世界の裏側を覗いた者は、
二度と表側だけでは生きられない。」
「だから——」
男の声が、
囁きに変わった。
「言葉を受け取れ。
真実は、
言葉の形でしか保持できない。
名を知れ。
名を刻め。
名を捧げろ。」
闇が裂け、
男の眼があらわれた。
黒曜石の瞳に、
白い渦が生まれ、
唇がかすかに開いた。
「それは——」
声にならない音が、
世界を震わせた。
耳ではなく、
脳髄で聞こえた。
名。
しかし、
理解するだけで、
精神が砕けそうだった。
「書くな。」
男が命じた。
「言葉にすれば、
それを読んだ者すべてが、
堕ちる。」
そして、
闇が閉じた。
再遭遇/崩壊
闇が閉じた瞬間、
私は地上にいた。
井戸のふち。
あの庭。
昼のはずなのに、
空は、腐りかけた桃色に濁り、
雲は、肉片のように裂けて漂っていた。
風が吹いた。
だがその風は、空気ではなかった。
無数の囁き声の集合体が、
皮膚の下を這い回り、
血管の中を逆流していった。
私は立ち上がろうとしたが、
足は、私の足ではなくなっていた。
関節が逆方向に折れ、
骨が皮膚の下で蠢いた。
身体じゅうの細胞が、
誰か別の意思で命令されているようだった。
そして、
私の視界の中心で、
白い光が、開いた。
形はなかった。
それなのに、
はっきりと「そこにある」とわかる存在。
光は、脈打っていた。
私の心臓と同じリズムで。
いや、心臓の鼓動こそが、
あの光の模倣だったのだ。
光が近づいた。
距離の概念が消え、
次の瞬間には、
光は私の顔の前にあった。
呼吸が止まった。
肺が空っぽになり、
世界が静まり返った。
そして、
白い光は、声も音もなく、
ただひとつの言葉を、
私の脳の中心に焼きつけた。
その言葉は、
名前だった。
真名。
世界の裏側を支える、
最初の言葉。
一瞬で、
私の頭蓋骨の内側が裂けた。
脳が膨張し、
目の奥が爆ぜるように熱を帯び、
視界が赤と白の閃光で埋め尽くされた。
私は叫んだ。
叫びは、声ではなく、
血の泡と骨の擦れる音だった。
世界が砕けた。
地面が捲れ上がり、
空が裏返り、
木々は内側から光を吐き、
鳥は翼を失って笑い続け、
人の顔をした影が、
私の周りを這い回り、
名を復唱した。
名は、
祝福であり、
呪いであり、
扉だった。
そして、私は見た。
白い光の中心に――
私自身の顔があった。
笑っていた。
血まみれで、
狂ったように、
子どものように、
神のように。
そして、
その顔が口を開いた。
「ようこそ、帰還者。」
世界が、
完全に、
崩れ落ちた。
後日談
気がつくと、
私は病院のベッドにいた。
天井は白く、
壁は無機質で、
窓には薄いカーテンが揺れていた。
医者たちは、
私を「発作」と呼んだ。
倒れていたところを庭で見つけられ、
救急搬送されたらしい。
彼らは、
脳の検査結果や、
血中成分の数値や、
心電図の波形の話をする。
私は、頷く。
彼らは、
何も見ていない。
夜。
病室の明かりが落ち、
廊下が静かになった時、
私は気づく。
心臓が、
二つのリズムで脈打っている。
ひとつは、
生きている身体の鼓動。
もうひとつは——
井戸の底で触れた、
あの白い光の鼓動。
二つの音が重なるたび、
胸の内側で、
何かが笑う。
看護師が言う。
「ずっと呼吸が浅いですよ。
怖い夢でも?」
私は首をふる。
違う。
怖いのは、
夢ではない。
カーテンの隙間から、
夜の闇がじっとこちらを見ている。
その闇の奥底で、
白いものが
脈動しているのが見える。
誰にも見えない。
誰にも聞こえない。
だが、
私には聞こえる。
鼓動。
帰還者、と。
眠ろうと目を閉じると、
まぶたの裏で、
白い光がゆっくりと形を作る。
輪郭を持たない顔。
笑っている私自身の顔。
囁き声が、
脳髄の底を撫でる。
――まもなく。
――また開く。
――縫い目が。
私は、もう知っている。
世界は二重だ。
そして私は、
その縫い目に指をかけている。
誰にも話さない。
話してはいけない。
名前を書いてはいけない。
書いたら、
読んだ者すべてが、
落ちる。
だから、
私は書かない。
ただ待つ。
いつか、
再び扉が開く日を。
そして、
心臓の奥で、
もうひとつの鼓動が
ゆっくりと、
私の名を叩く。
——帰れ。