茨城県南部の湿った風が、車の窓から吹き込んでくる。
七月半ばの筑波は、緑とアスファルトが混じり合った独特の匂いがした。父親の転勤に伴う引っ越しは、中学三年の夏という最悪のタイミングで決定された。助手席の父親は煙草をふかし、後部座席の私と弟は、流れる景色を無言で眺めていた。
新居となる借家は、古い住宅街の奥まった場所にあった。
昭和五〇年代に建てられたとおぼしき木造モルタル二階建て。外壁はくすんだ灰色で、所々に雨だれのような黒いシミが縦に走っている。庭には膝丈まで伸びた雑草が生い茂り、その隙間にプラスチックのゴミが散乱していた。色あせたスナック菓子の袋、潰れた空き缶、泥にまみれたビニール紐。それらが夏の強い日差しに晒され、異様な生活感を放っている。
「ひでえな」
私が呟くと、弟が鼻を鳴らした。
もっと酷いのは、一階の掃き出し窓だった。ガラスが放射状にひび割れ、一部が欠落している。管理会社の杜撰さが、その一枚だけで知れた。
荷下ろしが始まる。
玄関のドアを開けた瞬間、カビと古紙を煮詰めたような淀んだ空気が鼻腔に張り付いた。
昼時だというのに、屋内は薄暗い。廊下の突き当たりにある台所まで、光が届いていないのだ。壁紙はヤニで黄ばみ、歩くたびに床板が軋んだ音を立てる。
「和也、お前は二階だ。自分の分と弟の分、運んでくれ」
父親の声がくぐもって響く。
私は段ボール箱を抱え、急な階段を上った。手すりはベタついていて、触れるのを躊躇わせる。二階には二部屋あるはずだった。南側の六畳間と、北側の四畳半。
南側の部屋に荷物を置き、北側の部屋へ向かおうとした時、足が止まった。
廊下の突き当たり。
そこにあるはずの「ドア」がなかった。
代わりにあったのは、壁一面を覆い尽くすガムテープの層だった。
白い壁紙の空間に、そこだけが異質な茶色い矩形を描いている。布製のガムテープが、縦、横、斜めと幾重にも重ね貼りされ、元の建具を完全に隠蔽していた。テープの端はめくれ上がり、古びた接着剤が黒い糸を引いている。
隙間なく、執拗に。
それは修繕というより、封印と呼ぶに相応しい光景だった。
「兄ちゃん、これ」
後ろから来た弟が、私の背中越しにそれを見て息を呑む。
「なんだこれ」
近づいて指先で触れる。硬い。何層にも重ねられたテープは、叩くとコツコツと乾いた音を返した。しかし、その奥に空洞がある感覚。
「開かずの間ってやつか?」
弟が茶化すが、その声は微かに震えている。
一階から父親を呼んだ。父親は眉をひそめ、携帯電話を取り出して管理会社へ連絡を入れる。その間、私たちはその異様な壁の前から動けずにいた。テープの隙間から、微かに冷たい風が漏れ出している気がしたからだ。
「剥がしてみるか」
電話を終えた父親が、苛立ち紛れに言った。管理会社の担当者が来るまで待てない、とにかく現状を確認するという。
爪先でテープの端をカリカリと引っ掻く。
バリ、バリ、バリ。
乾いた粘着音が廊下に響く。テープは経年劣化で脆くなっており、細切れにしか剥がれない。皮膚にこびりつくような古い糊の匂いが立ち昇る。
私と弟、父親の三人で、無言のままテープを剥ぎ取っていった。指先が黒く汚れ、爪の間に茶色の粕が詰まる。
作業を始めて十分ほどで、中央部分の建具が露わになった。
ドアノブがない。
いや、ノブがあったはずの穴まで、粘土のようなパテで埋められている。
さらにテープを剥がすと、ドアと枠の隙間もコーキング剤で埋め尽くされているのが分かった。前の住人は、この部屋を完全に「なかったこと」にしようとしていたのだ。
「ここまでやるか普通」
父親が踵でドアの下部を蹴った。
衝撃でパテの一部が剥落し、ぽっかりと穴が開いた。
直径五寸ほどの、不規則な穴。
そこから、ふわりと埃っぽい風が吹き抜けた。
「中、見える?」
弟が穴に顔を近づける。
「真っ暗だ。何も見えない」
弟は片目を細め、穴の奥を覗き込んだまま固まった。
背後で玄関のチャイムが鳴る。管理会社の人間が到着したようだ。父親が階段を下りていく。
私は弟の肩を叩いた。
「おい、どうした」
弟は動かない。穴に顔を近づけた姿勢のまま、呼吸だけが荒くなっている。
「……い音がする」
「え?」
「ずり、ずりって。何かを引きずるような音」
弟がバッと顔を上げた。その顔面は蒼白で、額には脂汗が滲んでいる。
「中に誰かいる。動物とかじゃない。もっと、重いもの」
管理会社の男、柳という人物は、二階に上がってくるなり顔をしかめた。
「ああ、これは……」
柳の視線は、穴そのものではなく、その周囲の剥がされたテープ跡を彷徨っている。
「前の住人の方が、少し神経質な方でして。音に敏感だったというか」
「音?」
私が尋ねると、柳は口ごもった。
「いえ、その、風の音とか、そういう類です。とにかく、ここはすぐに業者を入れて直させます。費用はもちろんこちらで持ちますので」
柳は早口で捲し立てると、逃げるように一階へ戻っていった。穴の中を確認しようともしなかった。
それが酷く奇妙だった。管理会社ならば、部屋の状態を確認するのが筋ではないか。まるで、中にあるものを「知っている」かのような態度。
その夜、私たちは一階の居間に布団を敷いて寝ることになった。
二階のその部屋――元子供部屋らしい――の工事が決まるまで、二階の使用は控えることになったのだ。弟が頑なに二階へ行くのを拒んだせいもある。
「目が合ったんだ」
夕食の席で、弟は箸を止めてポツリと言った。
「穴の奥で、何かが動いた。暗くてよく見えなかったけど、白い、指みたいなものが」
父親は「ネズミかイタチだろ」と笑い飛ばしたが、母親は気味悪そうに眉を寄せた。
私は何も言えなかった。
昼間、弟が穴から顔を離した直後、私も一瞬だけ中を覗いたからだ。
何も見えなかった。
だが、匂いがした。
古い畳と、湿った布団。そして微かに、生臭いような甘い匂い。
それは、生き物の生活臭だった。
深夜、尿意で目を覚ました。
古時計の針は二時を回っている。
隣で寝ているはずの弟がいない。トイレだろうか。
重い体を起こし、廊下へ出る。トイレの明かりは消えている。
ふと、天井を見上げた。
ミシッ、ミシッ。
二階から、足音が聞こえる。
子供の歩幅ではない。もっと重く、引き摺るような足音。
ズリ……ズリ……。
それは階段の方へ近づいてくるのではなく、あの「塞がれた部屋」の前を行ったり来たりしているようだった。
弟か?
いや、弟があそこへ行くはずがない。あんなに怯えていたのだから。
私は素足のまま、冷たい廊下を踏みしめて階段の下へ立った。
見上げると、二階の踊り場は闇に沈んでいる。
目を凝らす。
闇の中で、何かが揺れていた。
風ではない。
剥がし残したガムテープの切れ端が、内側からの「圧」で押し出され、ヒラヒラと動いているのだ。
穴は塞がれていなかったか?
夕方、父親がベニヤ板と新しいガムテープで仮止めしたはずだ。
そのベニヤ板が、内側からゆっくりと、押し曲げられようとしていた。
呼吸を止めて、その光景を凝視する。
ベニヤ板の四隅を留めたガムテープが、じりじりと悲鳴を上げている。
メリ……メリ……。
繊維が引きちぎれる微細な音が、静寂の中で雷鳴のように響く。内側から何者かが、板全体を掌で押し付けているような動きだ。
逃げなければならない。本能がそう告げているのに、足裏が床板に接着されたように動かない。
やがて、右上のテープが限界を迎え、プツンと弾けた。
ベニヤ板の一角が浮き上がる。
そこから漏れ出したのは、昼間感じた生臭さの、数倍も濃密な悪臭だった。腐った水と、整髪料が混ざったような、生理的な嫌悪感を催す匂い。
「……にい……ちゃん」
背後から声がした。
飛び上がるほどの衝撃を受け、振り返る。
弟が台所の陰に立っていた。顔色は紙のように白く、パジャマのズボンが濡れている。失禁していた。
「あれ、入ってくる」
弟の視線は、私ではなく、私の背後の階段に向けられている。
「入ってくるって、何が」
「僕たちの場所、取られる」
意味が分からなかった。弟の瞳孔は開ききり、焦点が合っていない。
その時、二階で「ドン!」という大きな音がした。
ベニヤ板が完全に外れ、床に落ちた音だ。
続いて、ズリ、ズリ、という這う音が、階段の登り口へと近づいてくる。
私は弟の手首を掴み、一階の親の寝室へと走った。
襖を乱暴に開け、父親の体を揺する。
「父さん! 起きてくれ! 誰かいる!」
父親は不機嫌そうに唸り声を上げ、重い瞼を開けた。
「なんだ……今は何時だと」
「二階! 二階に誰かいるんだよ!」
私の剣幕に、ようやく父親も事態を察したのか、枕元の懐中電灯を掴んで立ち上がった。
三人で廊下へ出る。
静かだった。
二階からの音は止んでいた。
父親が懐中電灯の光を階段の上へ向ける。光の筋が埃の中を走り、踊り場を照らす。
何もいない。
ただ、剥がれ落ちたベニヤ板だけが、無惨に転がっていた。
「風で外れただけだろう」
父親は強がりを言ったが、握る手には力がこもっている。
「俺が見てくる。お前たちはここで待ってろ」
父親は階段を軋ませながら上っていった。
私は弟を庇うように立ち、その背中を見守る。
二階へ到達した父親が、廊下の奥、あの部屋の方へ光を向ける。
「……おい」
父親の声が震えていた。
「和也、ちょっと来い」
呼ばれて、恐る恐る階段を上る。
父親が照らしているのは、例の部屋の入り口だ。
開いていた。
もともとドアノブもなく、パテで埋められていたはずのドアが、内側に少しだけ開いている。
蝶番が壊れ、強引にこじ開けられたように。
そして、その隙間から、大量の「髪の毛」がはみ出していた。
いや、違う。
近づいてよく見ると、それは髪の毛ではなかった。
黒い、無数の細いビニール紐だ。庭に落ちていたゴミと同じものが、部屋の中から溢れ出し、廊下へと侵食している。
まるで、部屋そのものが嘔吐したかのように。
「なんだこれは……」
父親が靴先で紐を払おうとした瞬間、家中の電気が消えた。
完全な暗闇。
停電だ。
「父さん?」
「動くな。懐中電灯がある」
父親の声と同時に、手元の明かりが再び灯る。しかし、その光量は心なしか弱々しい。
光の先、部屋の隙間から、ズルリと何かが這い出てきた。
人の腕だった。
白く、肉付きの薄い、ひょろりとした腕。
それが床を掴み、身体を引きずり出そうとしている。
「うわあぁぁぁ!」
一階で弟の絶叫が響いた。
私と父親が反応するよりも早く、その「腕」の主が顔を覗かせた。
人間ではない。
目があるべき場所に黒いガムテープが貼られ、口元だけが露出している。その口が、ニタニタと笑っていた。
「みぃつけた」
掠れた、しかし聞き覚えのある声。
それは、私の声に酷似していた。
私は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
父親が懐中電灯を振り回し、「うわぁ!」と声を上げて後ずさる。
光が乱舞し、強烈なストロボ効果を生む。
その明滅の中で、ガムテープの顔をした何かが、尺取虫のような動きで、驚くべき速さでこちらへ這い寄ってくるのが見えた。
匂いが鼻を突く。
あの腐った水の匂い。
「父さん、逃げろ!」
叫んだ時には、もう遅かった。
その「何か」は、父親の足首を掴んでいた。
父親が悲鳴を上げ、階段を転げ落ちていく。
ドサドサドサッという鈍い音と、呻き声。
私は残された。
懐中電灯は父親と共に落ち、一階の床で転がりながら、天井を照らしている。
薄暗い二階の廊下で、私と「それ」は対峙した。
「それ」はゆっくりと立ち上がった。
背丈は私と同じくらい。着ている服も、私と同じパジャマ。
ただ、顔だけがガムテープで幾重にも巻かれ、眼球の代わりにあけられた小さな穴から、濁った液体が垂れている。
「それ」が手を伸ばしてきた。
逃げ場はない。背後は壁、前には「それ」。
指先が私の頬に触れた。
冷たい。氷のような冷たさではなく、死んだ魚のような、湿った冷たさ。
「……かわって」
ガムテープの奥から、くぐもった声が聞こえた。
「かわってよ」
意識が遠のく。
恐怖のあまり脳がシャットダウンしようとしているのか、視界が急速に狭まっていく。
最後に見たのは、「それ」が私の顔に、持っていたガムテープを押し付けてくる光景だった。
粘着面が皮膚に張り付く感触。
呼吸が塞がれる苦しさ。
そして、世界が反転する感覚。
目が覚めると、暗闇の中にいた。
体が痛い。全身が何かに強く締め付けられているような圧迫感がある。
起き上がろうとして、頭を何かにぶつけた。
ゴツン、と硬い音が響く。
狭い。
手を伸ばすと、すぐに壁に触れた。四方を壁に囲まれている。
ここはどこだ。
記憶を辿る。階段で「それ」に襲われ、顔にテープを貼られ……。
顔に手をやる。テープはない。
だが、口の中に異物感があった。泥のような、乾いた埃のような味がする。
「おーい!」
叫ぼうとしたが、声が出ない。
喉が張り付いたように、ヒューヒューという掠れた音しか漏れない。
壁を叩く。
ドンドン。
音は響くが、吸い込まれるように鈍い。
壁の感触が奇妙だった。ベニヤ板や石膏ボードではない。もっと柔らかく、何層にも重ねられた紙のような、布のような。
これは、ガムテープだ。
内側から、ガムテープで固められた壁。
私は、あの部屋の中にいるのか?
ふと、外から音が聞こえた。
足音だ。
複数の人間が、廊下を歩いている。
「……ここの壁、湿気がすごいですね」
知らない男の声。
「ええ、前の住人が何かで塞いでいたようで」
それは、父親の声だった。
父さん! ここだ!
私は必死で壁を叩いた。
ドンドン! ドンドン!
「ん? 今、何か音がしませんでしたか?」
男の声が近くなる。
「音? いや、何も聞こえませんが」
父親の声は平坦だった。昨夜の恐怖など微塵も感じさせない、日常のトーン。
おかしい。昨夜、あんな怪異に遭遇したばかりなのに。
「気のせいですかね。しかしこの壁、妙な膨らみ方をしている」
壁の向こうで、誰かがこちら側に触れた気配がする。
私は渾身の力で叫んだ。
「出してくれ! ここにいるんだ!」
だが、口から出たのは言葉ではなかった。
「ズリ……ズリ……」
喉の奥から、重い物を引きずるような、あの不快な音が漏れただけだった。
「やっぱり、音がしますよ。何か、擦れるような」
「ネズミでしょう。古い家ですから」
父親があっさりと答える。
嘘だ。父さんは知っているはずだ。私がいないことに気づいていないのか?
いや、気配で分かった。
壁の向こうには、もう一人いる。
「……ねえ、パパ。早く行こうよ」
私の声だった。
私が、向こう側にいる。
背筋が凍りつく。
どういうことだ。私がここにいて、向こうにも私がいる。
昨夜の「それ」の言葉が蘇る。
『かわって』
まさか、入れ替わったのか?
あの怪物が私の姿で外を歩き、私がこの狭い闇の中に閉じ込められたのか?
「そうだな、和也。行こうか」
父親が「私」に優しく声をかける。
待ってくれ。行かないでくれ。
私は狂ったように壁を掻きむしった。
爪が剥がれ、指先が血に塗れるのも構わず、ガムテープの層を引き裂こうとする。
カリカリ、バリバリ。
「気持ち悪い音……」
向こう側の「私」が呟く。
「この部屋、やっぱり塞いだままにしておこうよ。なんか嫌な感じがする」
「そうですね。リフォームの際も、ここは触らずに、上から新しい壁を作ってしまいましょう」
業者の男が同意する。
やめろ。
やめてくれ。
光が完全に閉ざされる。
新しい壁が、私の世界の境界線を塗り固めていく気配がする。
足音が遠ざかっていく。
弟の声も、母親の声もしない。
ただ、私になりすました「それ」の、軽快な足音だけが耳に残った。
それから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。
私は暗闇の中で、ただひたすら壁を引っ掻いている。
時折、外側から誰かが壁を叩く音がする。
新しい住人だろうか。
私は必死で応える。ここだよ、出してくれ、と。
だが、喉から出るのは「ズリ……ズリ……」という音だけ。
指先はとっくに擦り切れ、骨が露出している感覚があるが、痛みはない。
ただ、寒い。
そして、あの強烈な腐臭が、自分の体から発せられていることに気づき始めていた。
ふと、外の気配が変わった。
ガムテープが剥がされる音がする。
バリ、バリ、バリ。
光が差し込む。
眩しさに目を細めると、そこには見知らぬ少年たちが立っていた。
恐怖に引きつった顔で、こちらを見ている。
「うわ、なんかいる!」
「逃げろ!」
少年たちが逃げ去っていく。
私は手を伸ばす。
待って、助けて。
伸ばしたその腕は、白く、ひょろりと長く、生気のない色をしていた。
ああ、そうか。
私は今、あの時の「それ」になっているんだ。
そして、いつかまた、誰かがこの壁を開ける。
その時こそ、私はその誰かと「かわる」のだ。
かつて、私がそうされたように。
私はニタニタと笑い、剥がれかけたガムテープを手に取った。
次の「私」が来るのを、この暗闇で待ち続けるために。
[出典:56 :本当にあった怖い名無し:2012/10/01(月) 22:43:51.23 ID:hWz1xoxm0]