ああ、五十年も前の話だ。
小学生だった俺は、川崎の工場地帯のど真ん中に住んでいた。金属と油の臭いが空気に溶け、運河は濁った緑色に沈んでいた。目の奥がひりつくのが当たり前の時代だった。
放課後は駄菓子屋か空き地。五円玉を握りしめ、飴を選ぶ。それだけで一日が終わった。
その木田が、「橋の向こうに新しい店がある」と言い出した。通学路を外れ、運河を渡る。薄暗い小路と油に染みた工場の隙間を抜けると、『◯◯発動機』の看板の下にバラックがあった。
戸を開けると、機械と工具が散らばる工場の隅に、駄菓子の棚が置かれていた。酢イカ、ふ菓子、くじ引き。だが木田はしゃがみ込み、溶接面をかぶった男に声をかけた。
「ムーンチョコ」
男は面を上げず、銀紙の包みを差し出した。木田がかじり、残りを俺に渡す。舌に触れた瞬間、世界がねじれた。濃い甘さの奥から、温かい液体がとろりと滲み出る。喉を通るたびに、体の内側が明るくなるような感覚があった。
銀紙の中には青いカードが入っていた。光に透かすと月の景色が浮かぶという。木田は「山が見えた」と言った。俺のカードは、ただの青い膜だった。
一週間で店は満員になった。放課後になると二十人近くが押しかけ、無言でチョコをかじる。目はどこか遠くを見ていた。俺も同じだった。普通の菓子が、土の味に思えた。
工場の奥の機械は、日ごとに姿を変えた。金属の塊が丸みを帯び、滑らかな殻のようになっていく。中央には青白い球体が埋め込まれていた。男は言った。「宇宙船だ。心臓部が揃えば飛べる」と。
藤島が当たりを引いたのは、その直後だった。カードに旗が立った月面が浮かんだと騒ぎ、男は彼の名前と住所を書かせた。「ご招待だ」と。
翌朝、藤島は湾岸道路で轢かれた。頭部は見つからなかった。
それでも俺たちは店に向かった。戸は閉じられ、ガラスは黒紙で塞がれていた。『閉店しました。ごめんなさい』とだけ貼ってあった。
他の連中はやがて来なくなった。俺だけが通い続けた。理由はわからない。あの味の続きが、まだ体のどこかで光っていた。
十日目、黒紙の端にわずかな隙間を見つけた。目を寄せる。
暗闇の中で、あの機械が息をしていた。青白い光がゆっくりと脈打つ。中央の球体に、顔が浮かんでいた。
藤島だった。
目を閉じている。だが、次の瞬間、まぶたが持ち上がった。
球体の内側から、こちらを見た。
俺は走った。振り返らなかった。
数日後、建物は跡形もなくなった。鉄条網に囲まれた空地だけが残った。事故の運転手は捕まらず、頭部も出なかった。
そのすぐ後、港の化学工場が爆発した。夜空が昼のように白く染まった。死者は出なかったという。
あの色だった。球体と同じ、青白い光。
いま思えば、誰が選ばれていたのかはわからない。藤島だったのか、俺だったのか。
あのとき、カードに何も見えなかったのは、外れだったのか、それとも――。
仮面ライダーのカードが流行ったとき、俺は一枚も集めなかった。
透かして、何かが見えるのが怖かった。
[出典:82 :1/11:2020/08/15(土) 02:01:00.79 ID:y3BXYe+r0.net]