高校時代の記憶は、そこだけが焼け残った紙のように、黒く縁取られている。
あの日のことを語るとき、どうしても一人称でしか語れない。他人の体験として処理すれば楽になるはずなのに、それをすると何かがずれる。あれは「僕」に起きたのではなく、「僕の場所」に起きたのだと、今でも思っているからだ。
神奈川の郊外から市内へ向かう朝のバス。毎日ほぼ同じ顔ぶれが乗る。制服姿の学生、新聞を折る会社員、買い物帰りの主婦。見慣れた風景の中に、ひとりだけ、風景から切り離されたような老婆がいた。
背筋は伸び、黒に近い深い色の服をきちんと着こなしている。喪服にも見えるが、どこか時代が古い。皺の刻まれた顔には気品があり、視線はまっすぐ前を向いている。奇異な点はひとつもない。それでも彼女が乗り込むたび、車内の空気が薄くなる。誰もが無意識に呼吸を浅くする。理由はない。ただ、そこにいてはいけない人がいると、身体だけが理解していた。
冬の朝、その違和感は形を持った。
停留所でドアが開き、老婆が乗り込む。吐く息が白く、窓の外は凍るような空。僕は結露を指で拭いながら、視線だけで彼女の動きを追っていた。
その日、シルバーシートに座る老紳士が立ち上がった。灰色のハットをかぶり、杖も持たず、背筋をまっすぐに伸ばしている。彼は老婆を見据え、低い声で何かを告げた。
内容は聞き取れない。ただ、その瞬間、車内の音が一段落ちた。エンジンの振動が遠くなる。蛍光灯の唸りが強調される。
老紳士の横に立つ中年の男が二人。どちらも大きな鞄を抱えている。彼らは目だけで合図を交わし、ひとりが鞄を開いた。
中から現れたのは、鈍く光る銀色の球体。直径二十センチほど。表面は滑らかで、蛍光灯の白が歪んで映る。
「それだけはさせません!」
老紳士の声が、車内を切り裂いた。
何を、誰が、誰に対して止めようとしているのか。誰も理解できていないはずなのに、全員がその言葉の対象に自分が含まれていると悟った。僕の喉は乾き、膝が震えた。爆弾という単語が浮かび、すぐに消えた。あれは爆弾という概念では足りない。
老婆は一歩も引かない。銀の球は男の手の中で静止している。だが、何かは既に始まっていると感じた。
そのとき、急ブレーキ。乗客が前につんのめる。運転手の声が機械的に響く。
「この先、迂回いたします」
いつもとは違う道へ曲がる。見慣れない建物。やがて暗闇。
トンネルだと思った。
次の瞬間、意識が切れた。
目を開けたとき、白い天井があった。腕には点滴。喉は焼けるように乾いている。母が泣いている。医師が何かを説明しているが、言葉が意味を結ばない。
僕は道路脇で倒れていたらしい。通行人が救急車を呼んだという。
バスはどこに行ったのか。ほかの乗客はどうなったのか。誰も知らないと言う。
退院後、新聞を探した。事故の記事はない。ネットにも記録はない。あの路線は今も平然と走っている。
ただ、僕の中で何かが欠けている。思考が滑る。言葉が繋がらない。友人が僕の話を断片から文章にしたと聞いたが、それがどこまで本当かもわからない。
老婆の顔を思い出そうとすると、代わりに銀の球が浮かぶ。球の表面には、歪んだ車内と、乗客の顔が映っていた。
その中に、僕はいたのだろうか。
確かなことがひとつだけある。
あの日、あのバスの中で、何かが選ばれた。
誰が残り、誰が消えるのか。
もしあなたがあの朝、同じ時間に同じ路線に乗っていたなら。銀の球の表面に映っていたのが、あなたの顔だった可能性は否定できない。
そして、その記憶が今、あなたの中にないのは。
本当に「何も起きなかった」からだと言い切れるだろうか。
――僕はあのとき、確かに降ろされた。
降ろされた場所が、どこだったのかは思い出せない。
だが、あのバスが今も走っている限り、次に座る席は、空いている。
[出典:538 :可愛い奥様:2012/08/09(木) 03:09:04.79 ID:w5Uy35ag0]