自宅の裏手に、小高い山がある。
麓から中腹まで、不自然なほどきれいに舗装された道が延びている。観光地でもない。伐採地でもない。ただ途中で、ぶつりと途切れている。
子どもの頃、古老に理由を尋ねたことがある。「昔、色々あってなぁ」と言うだけで、それ以上は何も教えてくれなかった。そのときは深く考えなかった。
高校二年の夏、ふと思い立って登ってみた。ジャージにスニーカー、ポテトチップス一袋という軽装だった。舗装路は思ったより長く続き、やがて土に変わった。気づけば、方向感覚を完全に失っていた。
喉が焼けるように渇いていた。
そのとき、視界が開けた。
小さな家が五軒。畑。鍬を持つ人影。古い。あまりに古い。時代劇の背景のようだった。
「すみません!」
声をかけると、男が顔を上げた。
「……外から来たんか?」
外、という言い方が引っかかったが、水を分けてもらった。竹筒の水は冷たく、妙に甘かった。
「村長に会うか」
連れていかれた家で、白髪の老人がこちらを見た。
「外の者か」
「はい」
「……そうか」
沈黙が長く続いた。
「皆さん、街には?」
老人は首を振った。
「下りる者はおらん」
理由は聞かなかった。聞けなかった。
握り飯を渡され、泊まっていけと言われた。暗くなっていた。断る理由も見つからなかった。
家には、男の妻とトメという娘がいた。ほかに子どもは二人だけだという。日が落ちるまで鬼ごっこをした。笑い声が山に吸い込まれていく。
夕食のあと、外の世界の話を求められた。テレビ、携帯、コンビニ。彼らは黙って聞いていた。誰も驚かない。ただ、じっと聞いている。
夜中、揺すられて目を覚ました。トメだった。
「にいちゃん、便所」
外に出ると、闇が濃かった。星もない。
その瞬間、トメの手が強く袖を掴んだ。
「にいちゃん、早う」
声が変わっていた。
「ここ、長うおったらあかん」
「どういう――」
「外、あっちやろ」
彼女は、来たはずの方向を指さした。だが、そこに道は見えない。
「早う」
背後で、戸のきしむ音がした。
振り向かなかった。走った。枝が顔を裂き、足がもつれた。それでも止まらなかった。誰かの足音が追ってくる気がしたが、確かめなかった。
やがて、足の裏に硬い感触が戻った。アスファルトだった。
舗装路は、まっすぐ下へ延びていた。
振り返ると、山はただの闇だった。家も畑も見えない。
翌朝、家に帰った。
母は玄関で固まった。
「……どなたですか」
冗談だと思った。だが、家の中にある写真立てに、自分はいなかった。
高校の卒業アルバムを開いた。自分の席だけ、空白だった。
机の上に、見覚えのない竹筒が置いてあった。
水は、まだ冷たかった。
二十年前から、この山の舗装路は途中で途切れているらしい。
――下りてきた者はいない、と。
(了)