高校を卒業するまで住んでいた町の外れに、白い二階建てがあった。
今では「幽霊屋敷」と呼ばれている家だが、当時はただの空き家だった。庭は手入れの跡を残し、外壁もまだ新しかった。窓ガラスは曇っているのに、崩れた気配はない。放置された、というより、時間だけがそこを避けているように見えた。
あの家で、一家三人が死んだ。
首を吊った父親。殺された母親と姉。助かったのは妹ひとり。父親が姉に手をかける場面を見て、押入れに隠れたから助かったと聞いた。
妹は遠縁に引き取られ、町からいなくなった。家はそのまま残った。取り壊されもせず、売られもせず、ただ閉じられた。
高校一年の夏、俺と唐沢と武井は、その家に入った。
理由は単純だ。写真を撮って、学校で笑い話にするつもりだった。怖い話を、自分たちの武勇伝に変えるつもりだった。
夜十時過ぎ。自転車を押して裏手に回り、勝手口の小窓をこじ開けた。板を外し、ガラスを割り、鍵を外した。侵入は思ったより簡単だった。
台所は整っていた。埃は積もっているが、食器は棚に収まり、冷蔵庫も閉じられたまま。昨日まで誰かが住んでいた、と言われても疑わない光景だった。
唐沢がガラスで指を切った。血が床に落ちた。
「大丈夫だって」
そう言いながら、彼は廊下へ出た。
止まった柱時計があった。針は午前三時十七分を指していた。事件の時間かどうかは知らない。ただ、その数字だけが、なぜかはっきり覚えている。
廊下の左の扉には、何枚も御札が貼られていた。
右は風呂とトイレ。何もない。俺たちは左を選んだ。
御札を剥がし、扉を開けた。
書斎だった。
仮面。奇妙な装飾。読めない文字の本。机の上に油紙に包まれた小さな平板があった。土器のようでもあり、皿のようでもある。不定形のそれに、見慣れない文字が刻まれていた。
唐沢がそれを手に取った。血が、縁に触れた。
家が鳴った。
地震ではない。下から押し上げるような、軋みだった。床がわずかに沈み、壁が呼吸するように膨らんだ気がした。
唐沢は平板を机に戻した。だが血は拭わなかった。
玄関で写真を撮ろうとしたとき、二人の視線が俺の背後に固定された。
振り返ると、書斎の扉が開いていた。
さっき閉めたはずだった。
唐沢が階段を駆け上がった。武井が続いた。俺も追った。
二階の一室。窓は新聞紙で覆われ、空気は冷えていた。
下から声がした。
「ぉーぃ」
助けかと思い、武井が応じた。
「どこだ」
返ってきたのは低い声だった。位置が近い。廊下ではない。部屋の前だ。
唐沢が呟いた。「逃げなきゃ」
だが、彼は動かなかった。
俺は窓へ向かった。新聞紙を剥がした。振り返ると、唐沢と武井が立っていた。背を向けたまま。
「ロープがある」
唐沢が言った。
「持ってこよう」
武井が答えた。
二人は部屋を出た。
隣室から、引きずる音がした。
笑い声が続いた。抑揚のない、乾いた笑いだった。
窓は開かなかった。鍵は動かない。叩いても割れない。
二人が戻ってきた。ロープを持って。
一本、机に置いた。
もう一本、梁にかけた。
俺を見なかった。
「ここに縛ろう」
「そうだね」
机が引きずられ、床を打つ音が響いた。
『ビタン……ビタン……』
それが止んだとき、部屋は静かになった。
机の上に、三本目のロープがあった。
誰が持ってきたのか、見ていない。
振り返ると、窓の外に目があった。
顔はない。半円の影の中に、二つの暗い点だけ。
「ずっと待っているよ」
「そうだね」
廊下から軋みが近づいた。
俺は押入れに飛び込んだ。
暗闇の中で、息を殺した。外で何かが引きずられ、止まり、また動いた。
やがて強い光が差し込み、戸が開いた。
「ここにはいません!」
自分の声で目が覚めた。
俺は押入れの中で発見された。
唐沢と武井は、二階の窓から首を吊っていた。
薬物反応はなし。遺書もない。
俺の証言は採用されなかった。報告書には「集団ヒステリー」とあった。
ただ、現場の刑事が、押入れを見て呟いた。
「また、か」
その意味を、誰も説明しなかった。
書斎で撮った写真は没収された。返ってこなかった。
俺はあの平板の文字を調べたことがある。
正しいかどうかは知らない。
だが、ある古語辞典に、似た音の語があった。
《冥へ通じる穴》。
それ以来、夜になると窓に目がある。
半円の影の中で、二つの点がこちらを見ている。
「ずっと待っているよ」
「そうだね」
あの家が空き家のままなのは、取り壊せないからではない。
空いていないからだ。
(了)