「君の神格は、きっと高いね」
そう言ってきたのは、ちょっと風変わりな外国人だった。英語混じりの日本語を話す男で、職業は自称「文化宗教学者」。でも、聞いているうちに、彼が話しているのは学問というより“信仰”に近いものだと分かってきた。
その男が言うには、「この世界のすべての生命には、霊的な“格”がある」らしい。神格、あるいは霊格——どちらも似たような意味で、魂のランクみたいなものだという。
この“格”は、地球上のあらゆる生物に与えられており、厳密に階層化されていて、どの階層も満席。人がどんな修行をしようが、どれだけ善行を積もうが、勝手に上位に行くことはできない。
つまり、転生や徳を積めば上に行けるといった“業績主義的なスピリチュアリズム”とは違う。彼の理屈では「最初から席は決まっていて、動かない」のだ。これを聞いて、自分は最初「階級社会の亡霊か」と思った。
しかし、彼の話はそこから意外な方向に展開していった。
「日本人は、全体的に神格が異常に高い」
は?と思うだろう。自分もそう思った。でも彼は続けた。「なぜかは分からない。ただ、彼らは“見えて”しまっている」
この「見える」というのが、話のキモだ。
彼が挙げた例が、日本の昔話でよく出てくる「お天道様が見ている」という感覚。善悪の判断に、絶対的な“視線”を持ち出す文化は世界的に見ても珍しいらしい。
欧米の宗教観では、神は人格を持つ存在であり、人間とは明確に区別された創造主だ。彼らの「神」は常に「上」から命令を下す存在。だが日本では、神々は「そこにいる」。川のほとりにも、台所にも、トイレにも。神道では、神々は自然そのものであり、人と同じく気まぐれで、時に怒り、時に癒す。
だからこそ、「お天道様が見てる」という発想が成立する。自分たちの中に“見る存在”が常に共存している。この感覚が、彼に言わせれば「神格の高さ」の証だという。
──そして彼は、低い神格の話を始めた。
彼の理屈によると、神格が著しく低いのは、皮肉にも現代を支配する“近代西洋的価値観”に染まった民族らしい。特に、大航海時代にキリスト教を布教された地域の人々。
当時、宣教師たちは銃と聖書を抱えて世界中を渡り歩き、布教活動という名の宗教的征服を行った。現地の神々は異教として否定され、人々は自分たちの信仰、神話、祖霊を捨てて「新しい神」を受け入れた。
「自分の神を捨てた民族は、神格が地に堕ちる」
そう彼は断言した。
何世代にもわたって「他人の神」を信じることで、自分たちの霊的なアイデンティティはすり減り、最終的には「別の文化や思想に依存しないと生きられなくなる」という。
「良い例が、某国のパクリ文化や、統一教会にハマる連中さ」
これはちょっと危険な話題かもしれない。しかし彼は躊躇なく言った。「神格が低い人々は、自分という存在に満足できない。だから“何者か”になろうとする。他人の価値観、他人の信仰、他人の成功。それに憧れて、模倣する」
「でも、それは別に“悪”ではない」とも彼は言った。
神格が低いことは罪ではない。ただ、そういう人々は“自分以外の何か”に成り代わろうとする傾向が強い。そして、それが集団レベルで顕在化すると、「文化の模倣」や「信仰の代替」として現れるらしい。
最後に彼は、こんなことを言った。
「神格が高い人間は、“別の存在になろう”としない。むしろ、自分という存在の深さに気づいているから、“今の自分であろうとする”。それが一番強い霊的な姿勢なんだよ」
そう言って、彼は去っていった。どこかへ行ってしまった。今思えば、あれは人間だったのか、ちょっと疑わしい。
神格なんて、確かめようのない話だ。でも、彼の言葉が頭に残っている。
──あなたの中の「お天道様」、今も見てるだろうか?
[出典:354 :本当にあった怖い名無し:2011/06/10(金) 01:21:46.96 ID:xwMAzMDK0]