私は、何度もあの丘を見上げて育った。
町の外れにある、ただの小高い盛り土。畑に囲まれ、道も舗装されていない。季節ごとに草の色が変わるだけで、特別なものは何もないはずだった。
けれど、ある時ふと気づいた。
丘の麓に、鳥居が一本だけ立っている。
境内はない。本殿もない。石段もない。
鳥居の向こうには、木立が密集しているだけで、奥へ続く参道すら見当たらない。よく目を凝らすと、木々の隙間に、石を積んだだけの小さな廟のようなものが沈んでいるのが見える。
最初に違和感を覚えたのは、小学校の遠足だった。
丘の前で、担任が急に声を張った。
「あそこから先は行かない。近づかないこと」
指差した先には、赤茶けた鉄柵が巡らされていた。
柵には、役場名義の札がいくつもぶら下がっている。
火気厳禁。立ち入り禁止。伐採禁止。
誰かが笑った。
「神社なのに、火を使っちゃいけないって変じゃない?」
担任は答えなかった。
ただ、妙に硬い顔で丘から目を逸らした。
それから何年も経って、私は町に残った。
郷土資料室に通うようになり、古い地図や記録を読むようになった。
あの丘には、名前がない。正確には、名前が抹消されている。
地図ごとに呼び方が違い、どれも途中で書き直されている。
ただ共通しているのは、丘の内部に穴があるという記述だった。
人が掘ったものではない。
元々あった空洞を、封じるように使ったらしい。
読んでいるうちに、忘れていた記憶が浮かび上がった。
中学の頃、今村という転校生がいた。
目立たない。口数も少ない。誰とも深く関わらない。
ある朝、彼は学校に来なかった。
放課後、噂が広がった。
丘の鳥居の前で倒れていたらしい。
うつ伏せで、動かなくなっていたという。
煙草の吸殻が一本、そばに落ちていた。
火は消えていた。
外傷はなかった。
死因は不明とされた。
その夜、祖母がぽつりと言った。
「あそこは、火を嫌う」
それ以上、何も言わなかった。
調べるほど、丘の周囲には奇妙な空白があることが分かった。
建物が建たない。
畑が途中で途切れる。
道が必ず曲がる。
年に一度だけ、鳥居の鉄柵が開けられる日がある。
楽の音が、丘の中腹まで流れる。
誰が来ているのか、外からは見えない。
酒と供え物が置かれ、夜明け前にはすべて片づけられる。
参加するのは、決まった数人だけだという。
町の外へ出たことがない者たち。
代替わりはしても、人数は変わらない。
ある年、大雨で倒木が相次ぎ、町が木材を出すよう求められた。
丘の木も対象に含まれた。
手続きを進めていた役場職員が、急に倒れた。
視察に来た者も、数日後に亡くなった。
理由はどれも曖昧なまま、計画は中止された。
誰も声に出して言わなかったが、皆わかっていた。
丘は、触れてはいけない。
火は禁じられている。
だが、それは怒りを買うからではないのかもしれない。
私は、そう思うようになった。
もし、火が彼らを呼び寄せるのだとしたら。
もし、火が彼らにとって「合図」なのだとしたら。
焼かれた記憶。
消えない匂い。
何度も繰り返された終わり。
だから火を持ち込んだ者は、取り込まれる。
死ぬのではなく、戻される。
私は今、丘のふもとにいる。
古ぼけたベンチに腰を下ろし、煙草を取り出す。
百円ライターを親指で弾く。
小さな火が点いた瞬間、音が消えた。
虫の声も、風も、遠くの車の音もない。
煙が、真っ直ぐ立ち上る。
丘のほうへ、吸い込まれていく。
次の瞬間、火が消えた。
息を吹きかけたわけでもない。
指を離したわけでもない。
背後で、足音がした。
振り返る前に、耳元で声が落ちた。
「……まだ、火を持ってるのか」
私は、なぜか答えなかった。
答えなくてもいいと、知っていたからだ。
丘の上で、何かが動く気配がした。
煙はもう、戻ってこない。
[出典:30 :あなたのうしろに名無しさんが……:2003/05/29 04:07]