大学三年の夏、あの夜のことは今も鮮明に思い出す。
当時、駅前の飲食店でアルバイトをしていて、閉店作業を終えると大抵は終電を逃していた。
寮までは自転車で十分ほど。夜風に吹かれながら無人の道を走るのは、疲れているはずなのになぜか心地よかった。人がいない静けさと、自分ひとりだけが世界に取り残されたような気配。それは少し不安でもあり、同時に甘美でもあった。
その日も同じように、自転車を漕いでいた。
ただ一つ違ったのは、バイト仲間の部屋に寄っていたせいで帰宅が深夜二時を回っていたことだ。道は普段以上に静まり返っていて、街灯の下を通るたびに自分の影が路面を長く引き延ばした。
角を曲がった瞬間だった。
前方から原付が一台、ふらつくように走ってきた。二人乗りで、後ろには派手な格好の女がしがみついている。酔っているのか、笑い声が夜の闇に溶けて耳障りに響いた。
すれ違いざま、女が甲高い声を張り上げた。
「ちょっと☆、すいませぇぇ~ん♪」
ふざけたようなイントネーションで、悪意を隠す気配すらない。
反射的に振り返ると、原付は停まり、女がこちらにひらひらと歩み寄ってきた。
「あのぉ~、すいません~」
舌足らずな声。だが瞳は笑っていなかった。
距離が縮まると、肌に貼りつくような違和感が背筋を走った。
どう見ても「高純度のDQN」というやつだった。
「お金貸してくんない?」
唐突な要求に、胃の底が冷たくなった。冗談ではない。
答えを返す前に、運転していた男も原付を降りて近づいてくる。
「持ってるだろぉ~?金貸してくれよぉ」
口調は甘えたようだが、視線は獲物を狙う肉食獣そのものだった。
財布には数千円しか入っていなかったが、学生の身にとっては大金だ。何より免許証や生協カードまで入っている。こんな連中の前で財布を取り出すなんて自殺行為だ。
「悪いけど持ってない」
声が震えたのを自分で自覚した。
次の瞬間、男が俺の背負っていたリュックを乱暴にひったくった。
「返せっ!」
思わず叫び、自転車を投げ出して掴みかかる。
夜の道に、もみ合う音と荒い息づかいが響いた。
必死でリュックを取り戻すと、男は憤怒の表情で拳を振り上げ、そのまま俺の腹部に叩きつけた。
……その瞬間、世界がスローモーションに変わった。
俺は両腕でリュックを抱きしめるように守りながら立っていた。
拳が直撃したのは、まさにそのリュック越しの腹。
骨が砕ける覚悟をした。意識が飛ぶのを待った。
だが、痛みは来なかった。
まったく、何一つ。
むしろ驚いたのは殴った男の方だった。
「痛えぇぇ~……!」
うめき声を上げ、拳を抱えてしゃがみこんだ。まるで鉄板に拳を打ちつけたかのように。
月明かりの下で見たその顔は、恐怖と混乱にゆがんでいた。
俺は一瞬もためらわず、自転車に飛び乗った。ペダルを全力で漕ぎ、風を切って逃げた。心臓が耳の奥で爆音のように脈打ち、何度も背後を振り返った。だが追ってくる気配はなかった。
寮に戻り、鍵をかけてからようやく呼吸が整った。
震える手でリュックを確認する。中身はバイト用の着替え、タオル、財布、帽子。固いものなど何一つ入っていない。
あの拳を防ぐ理由などあるはずがない。
不安に駆られ、内ポケットのファスナーを開けた。
そこに、小さな布袋が眠っていた。
カエルの絵が描かれた、子供っぽいお守り。
「無事カエル」とひらがなで書かれた札が縫い付けられている。
あまりに唐突に、母の言葉を思い出した。
入寮準備の時、母が言っていたのだ。
「通学かばんとリュックにお守り入れたからね」
それから三年。存在すら忘れていた。
だが確かに今夜、俺を守ったのはこの小さな布袋だった。
夏休みに帰省してその話をすると、家族は目を丸くした。
やがて笑いながらも真剣に頷き、「お守りの威力すげーな」と口々に言った。
その時ばかりは俺も信じざるを得なかった。
さらに後日談を母から聞いた。
あの「無事カエル」は祖母が旅行先で買ってきたものらしい。七年前のことで、はっきりとは覚えていなかったが、どうやら京都の天橋立にある智恩寺のお守りらしい。
子供向けのような愛嬌のある絵柄で、当時は「お守りにしては幼稚だ」と思った記憶すらある。
けれど今では違う。
あの夜、俺の命と尊厳を守ったのは間違いなく、この幼稚に見えるお守りだったのだ。
……ただ、一つだけ腑に落ちないことがある。
殴られた瞬間、確かに痛みはなかった。
だがその時、腹の奥で何かが「跳ね返した」ような奇妙な衝撃を感じたのだ。
金属の響きにも似た感覚が、臓腑を震わせた。
そして、後日。
何気なくそのお守りを手に取ったとき、布袋の内側で「カチリ」と乾いた音がした。
小石か金属片のような、硬いものが詰まっているような。
縫い目を解こうとした。
だが、なぜか手が止まった。
解いてはいけない気がしたのだ。
以来、お守りは今も机の奥にしまってある。
開けることはない。
ただ、夜更けにふと目を覚ますと、布袋の中から「カチリ」と硬い音が響いたような気がすることがある。
まるで拳を受け止めたあの夜の余韻が、今も続いているかのように。
俺はもう二度と、あの道を通っていない。
[出典:787 :本当にあった怖い名無し:2009/05/13(水) 02:23:55 ID:jjm1VgUC0]