卒業アルバムは、本当はもっと明るい本のはずだ。
将来の夢や寄せ書きや、忘れたくないことだけを都合よく並べた記憶の束。
小学校六年の時、火事で亡くなったクラスメイトの作文も、他のみんなと同じように載った。家に帰ってページを開いた瞬間、その子の文章だけ、紙がひどく冷たく感じた。
今でも、焦げた醤油と古い紙が混ざったような匂いを嗅ぐと、胸の奥がざわつく。
あれから二十年近くが経ち、私は三十路を越えた。景色の記憶は薄れていくのに、あの日の身体感覚だけは皮膚の裏に張り付いたままだ。特に湿度が高く、生暖かい夜が危ない。ふとした瞬間に、あのアルバムの重みと、上質紙の冷たさが蘇る。
一九九八年。関東平野の端にある公立小学校だった。校舎は古く、廊下を歩くと床がきしみ、天井の隅には埃を被った蜘蛛の巣が揺れていた。
二学期が始まってすぐ、クラスメイトが一人死んだ。
関根という、小柄で色の白い女子だった。
彼女は教室の右後ろ、掃除用具入れの近くの席に座り、休み時間は一人で本を読んでいる子だった。成績も運動も並。給食を食べるのが遅い。その程度の印象しかない。
一度だけ会話をしたことがある。私が落とした消しゴムを彼女が拾ってくれた。その時、手の甲に小さな火傷のような跡が見え、目が合うと袖口で隠した。
「……気をつけて」
消しゴムとは関係のない言葉だった。
九月中旬、担任が黒いスーツで教室に入ってきた。
「昨夜、関根さんの家で火事がありました。関根さんは亡くなりました」
原因はガス漏れ。木造二階建ての家は一瞬で火に包まれ、家族四人全員が亡くなったと聞いた。翌日、彼女の席に白い菊が置かれたが、それもいつの間にか消え、机だけが残った。
冬が過ぎ、春が来た。卒業アルバムの制作が始まった頃、文集ページに関根の作文を載せることになったと知った。夏休みの宿題として書かれ、提出されないまま家に残っていたものだという。
三月。卒業式の日。
証書と一緒に、厚く重いアルバムが手渡された。新品の紙とインクの匂いが教室に広がり、みんなが騒いでいた。
家に帰り、夕日が差す部屋でアルバムを開いた。
行事の写真をめくり、巻末近くの文集に辿り着く。紙質が変わる。ざらついた感触。
サ行のページに、関根の名前があった。
枠外に小さく、追悼の文字。
タイトルは『家族で行った花火大会』。
文章は几帳面で、線が細い。私は読み始めた。
八月十五日。家族四人で花火大会に行ったこと。屋台の焼きそばの匂い。綿菓子。りんご飴。ラムネのビー玉の音。
淡々としているのに、妙に鮮やかだった。
読み進めるうち、違和感が混ざる。
焼きそばのキャベツが焦げた匂い。
隣の人の汗が腕についたぬるっとした感じ。
踏み潰されたたこ焼きの形。
花火が上がる場面で、音は「ドーン」と書かれていた。
心臓が震えるほどの音。
空が昼間みたいに明るくなる。
喉がイガイガする火薬の匂い。
一番大きな花火が上がった時、周りの人の顔が真っ赤に照らされ、溶けてしまいそうに見えたとある。
空気が揺れて、熱い、熱いと。
私はいつの間にか息を止めていた。
部屋が暑い。夕日の色が赤すぎる。
最後の一行。
『私は、もうこんな花火は一生見られないんじゃないかと思いました』
そこで読み終えた。
アルバムの紙が、指に貼りつくほど冷たかった。
閉じようとして、視界の端で違和感を覚えた。
その一行の横、余白に、鉛筆の薄い文字がある。
「すごいでしょう?」
覚えがない。
ページから、微かに匂いが立つ。焦げたような、喉を刺す匂い。
その夜、夢を見た。
見知らぬ家の二階。窓の外は真っ暗で、空気が重い。
隣に関根が立っている。手の甲を隠しながら、こちらを見る。
「ほら、見て」
家の中が一気に明るくなる。
ドーンという音。
赤や青や黄色の光が、下から噴き上がる。
目が覚めた時、部屋に匂いが残っていた。
アルバムはベッドの下から引きずり出され、文集のページが開いたままだった。
あの余白の文字は消えていなかった。
今でも湿った夜、古い紙の匂いに混じって、あの焦げた匂いがする。
そのたびに、次はどんな花火を見るのかを考えてしまう。
アルバムは閉じたままなのに、ページはまだ、あの続きを待っている気がする。
(了)
[出典:23: ↓名無しさん@おーぷん:19/03/21(木)08:27:33 ID:2jI]