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背中と壁のあいだ rw+2,774

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夜勤が好きだった。

人と関わるのが得意ではない自分には、静かな病棟を歩き、決められた仕事を淡々とこなすほうが性に合っていた。

霊感なんてない。

ただ、夜の病院に長くいると、視界の端で黒いものが動いたり、誰もいないはずの背後で息をされたように感じたりすることはある。

その程度なら、珍しくもなかった。

あの夜までは。

その日は、本来なら自分の夜勤ではなかった。

入院患者のひとりが、一泊帰宅のリハビリ中に行方不明になった。家族や職員が日中から捜索に出ることになり、その穴を埋めるため、急きょ自分が夜勤に入った。

しかも、その晩に限って急変が重なった。

ようやく病棟が落ち着いたころには、午前三時を回っていた。

家族が駆けつけた患者の対応を相方がしていたので、自分ひとりでラウンドに出た。

その病棟は、病室がコの字型に並んでいた。

廊下の突き当たりには大きな窓がある。昼間なら外の光が差し込む、なんでもない窓だ。

けれど夜になると、外は真っ暗になる。

照明のついた廊下だけが、黒いガラスに映る。

自分が歩けば、向こう側でも自分が歩く。

あまり見ないようにしていた。

行方不明になった患者の部屋は、四人部屋だった。

その人のベッドは空いている。

わかっていたが、ラウンドでは部屋に入る。

扉を開けたとき、腕が冷えた。

空調が効きすぎているのかと思って、そのまま中へ入った。

処置の必要はない。眠っている患者の呼吸を一人ずつ確認していく。

一人目。

二人目。

三人目。

そこで、足が止まった。

四つ目のベッドに、布団が掛かっていた。

行方不明になった患者のベッドだった。

掛かっているだけじゃない。

人ひとりが横になっているように、布団の真ん中が持ち上がっていた。

しばらく見ていたと思う。

認知症の患者が、間違えて入り込んだのかもしれない。

そう考えた。

そう考えるしかなかった。

ベッドに近づき、布団へ手を伸ばした。

指先が触れた。

その瞬間だった。

「さむい」

耳元ではなかった。

部屋のどこかからでもなかった。

布団の中から聞こえた。

行方不明になった、あの患者の声だった。

手を引こうとしたのに、動かなかった。

冷たさが指先から手首へ上がってきた。

腕、肩、背中。

服の上からではなく、身体の内側を冷たいものが這ってくるようだった。

息を吸った。

声を出したつもりだった。

喉から出たのは、「アヒ、アヒ」という、自分でも聞いたことのない音だけだった。

布団をめくったのか。

めくらなかったのか。

そこだけは、今も思い出せない。

気がついたときには部屋を出ていた。

廊下を走った。

突き当たりの窓は見なかった。

振り返らなかった。

ナースステーションまで戻ると、それ以上動けなくなった。背中を壁に押しつけて、白衣を握った。

そのとき、内線が鳴った。

一度。

二度。

誰か取ってくれと思ったが、相方はまだ戻ってこない。

仕方なく受話器を取った。

病棟師長だった。

「見つかったって」

最初、その意味がわからなかった。

「行方不明の患者さん。海岸で見つかったって」

そこで師長は少し黙った。

「亡くなってたって」

いつ亡くなったのかは聞かなかった。

聞けなかった。

受話器を戻した。

そのあと、あの部屋を誰が確認したのかも覚えていない。

ただ、その夜から、夜勤ができなくなった。

正確には、ひとりで廊下を歩けなくなった。

背後が冷えるようになったからだ。

振り向いても、誰もいない。

けれど歩き出すと、また背中だけが冷たくなる。

ときどき視界の端に白いものが入った。

確かめようとすると消えた。

真夏でもカーディガンを着た。

周囲が汗をかいているのに、自分だけ寒かった。

異動願いを出した。

病棟が変われば終わると思った。

終わらなかった。

夜勤を外してもらった。

それでも、ときどき背中が冷えた。

だから病院を辞めた。

新しい職場に移ってからは、何も起きなくなった。

夜にひとりで廊下を歩いても平気だった。

背後に気配もない。

白いものも見ない。

寒くもならない。

やっぱり、あの病院に何かがあったんだと思った。

そう思えるまでには、かなり時間がかかった。

今はもう、夜勤のある仕事もしていない。

それでも、一つだけ癖が残っている。

ひとりになると、背中を壁につける。

自宅でもそうだ。

夜中に水を飲むときも、電話をするときも、気づけば壁を探している。

先日もそうだった。

夜中に目が覚めて、台所へ行った。

水を飲んでいる途中で、いつものように背中を壁につけた。

それで安心した。

しばらくして、背中が冷たくなった。

最初は壁のせいだと思った。

でも、その日は暑かった。

壁も冷たくなかった。

コップを置いた。

動けなかった。

背中と壁の、ほんのわずかな隙間から、

「さむい」

と聞こえた。

[出典:856 :可愛い奥様:2018/08/20(月) 12:51:15.34 ID:Es7oRAm20.net]

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