私が生まれ育った家は、古びた日本家屋でした。
土間に、畳敷きの大広間。かまどのある台所と、仏間。十六畳の和室。障子を開け放てば、縁側の向こうに小さな庭が広がり、その背後はすぐに山の斜面へとつながっていました。
春になると山菜が顔を出し、夕暮れに縁側へ寝転がれば風の音と鳥の声しか聞こえない。まるで時が止まったような家でした。そこに曾祖母と祖父母、両親、そして犬のジョンと一緒に暮らしていました。
ジョンは父が知り合いから譲り受けた犬で、紀州犬の血が混ざっているらしく真っ白な毛並みをしていました。野性を思わせる鋭い目をしているのに、性格は穏やかで、子どもの私をよく遊び相手にしてくれました。
十三の年の春、ジョンは子犬を六匹産みました。どの子も親譲りの白い毛。庭先を転げ回る姿がかわいらしくて、私は縁側から飽きもせず眺めていました。
その出来事があったのは、長雨のあと、ようやく陽が射した日のことでした。
お菓子と漫画を持って縁側に寝転がると、庭の芝生に見知らぬ女の子が座っていました。ジョンの小屋のそばで、子犬たちが転げ回るのを眺め、にこにこと笑っている。
年は小学校低学年くらい。あるいは幼稚園の年長組かもしれない。髪はショートボブで、真っ白なワンピースを着ていました。左手首には光をはね返すようなビーズの腕輪がありました。
こんな子、近所にいたか……？ そう思いながらも、ジョンを触りに来る子どもは少なくないので、そのまま漫画を読みふけりました。
一冊読み終えて顔を上げると、まだそこに座っている。
子犬がくしゃみをすると、驚いた顔をする。眠たそうにあくびをする子犬には、いたずらっぽく顔を覗き込む。あまりに表情がころころ変わるので、私は漫画を忘れてその子を見つめていました。
しかしふと気がつくと、姿がない。庭を横切らなければ帰れない造りの家なのに、どの瞬間に消えたのか見当がつかない。庭を探してみても、ジョンと子犬たちが眠りこけているだけでした。
母に「さっき庭にいた女の子、誰？」と聞くと、母は怪訝な顔をして「女の子？ ずっと玄関にいたけど、誰も来なかったよ」と答えました。
曾祖母に話すと「座敷わらしじゃない。座敷の子は草が嫌いで、畳の縁しか歩かん。芝生の庭になぞ出るものか」と一蹴されました。
結局、私の見間違いということになりました。
しかし次の日も、その次の日も、女の子は庭に現れました。白いワンピース姿のまま、ジョンや子犬を見てはにこにこと笑っている。家族も犬たちも誰ひとり気づかない。見えているのは私だけのようでした。
祖父は心配してお祓いを受けたほうがいいと言いましたが、私は首を振りました。あの女の子から悪意のようなものは感じず、むしろ見ているだけで癒される気がしたのです。
数日後、雨が三日続いた夜のことでした。夕食の最中、祖父が「その女の子、雨の日にも出るのか」と尋ねました。その直後でした。
雨音が突然変わりました。
「ザァー」という粒立つ音が「ゴォー」という低くうなる響きに変わり、家全体が震え始めたのです。
「雷……？ 違う、何の音……？」と私が呟いた瞬間、祖父が蒼白な顔で玄関に駆け出しました。
扉を開け放ち、耳を澄ませる祖父。その耳に「ザザザー」という木々の裂ける音が重なったとき、祖父が怒鳴りました。
「逃げろ！ 山が崩れるぞ！ 早く家から出ろ！」
父は曾祖母を担ぎ、母は印鑑や通帳の入った袋をつかみ、祖母は避難用のリュックを背負って飛び出しました。私は庭に残っているジョンを迎えに行こうとしましたが、祖父に抱えられ、無理やり家を離れました。
土砂降りの闇の中、轟音と揺れに包まれながら、私たちは高台の集会所へと逃げ込みました。
曾祖母は震える声で念仏を唱え、母と祖母は泣き崩れ、父と祖父は顔を青ざめさせて沈黙していました。
翌朝、雨は嘘のように上がり、青空が広がっていました。けれど祖父は「まだ戻るな。明日、消防団と一緒に見に行く」と言い張りました。
どうしても気になった私は、その翌朝、祖父たちの後をつけて家へ向かいました。
目に飛び込んできたのは、信じられない光景でした。
砂利道の先にあったはずの我が家が消えていたのです。屋根の一部が土砂の中に埋もれて見えるだけで、庭も家も跡形もなく押し潰されていました。
私は思わず声をあげて泣きました。ジョンも子犬も、みんな死んでしまったのだと思ったからです。
父に抱きとめられ泣きじゃくっていると、突然、腕をぐいと引かれました。振り向くと、あの女の子が立っていました。
白いワンピースは胸元まで泥に染まり、手は切り傷で赤黒くただれていました。腕輪もなく、髪も乱れています。
女の子は鋭い目で私を睨みつけると、自分の足元を指差しました。
その指差す先に駆け寄ると、そこだけ土砂がえぐられるようにして凹んでおり、中には祖父が作ったジョンの小屋が埋もれずに残っていました。
屋根を外すと、そこには――泥まみれの袋と水の容器。そして生きたジョンと子犬たち。
私たちは歓声をあげました。
祖父は「わしの小屋は丈夫だからな」と胸を張りましたが、私は知っていました。あの子が導いてくれたのだと。
けれどそのことを祖父には言えませんでした。女の子は最後に安心したように笑うと、山の斜面を滑るように消えていきました。
曾祖母だけに話すと「山の神様だろう」と静かに手を合わせました。
その後、私たちは新しい土地に家を建て直しました。ジョンはやがて死に、その娘チャロが家族になりました。
私は今でもあの庭跡を通るたび、ベンチに腰を下ろし、ジョンの面影を持つチャロをなでながら思います。
――あの子は、また来てくれるだろうか。
チャロのお腹の中に新しい命が宿っていることを、あの子はもう知っているのだろうか。
そう願いながら、私は耳を澄ませています。風の音の向こうから、あの笑い声が聞こえてくる気がするのです。
（了）
[出典:20：犬の親子と女の子：2011/05/17(火) 02:46:41.51 ID:rpqNSiVS0]
