職場の同僚と居酒屋で飲んでいたとき聞いた話。
都内の中小SI企業に勤めていたという男性の話だった。仮に、S氏としておく。
仕事はそれなりにできるタイプだったらしく、責任あるポジションも任されていたらしい。だがそのぶん、彼にのしかかるプレッシャーも異常だったという。プロジェクトの炎上に次ぐ炎上、深夜帰宅は常態化し、休日出勤や徹夜も当たり前。平均睡眠時間は二〜三時間ほどだったそうだ。三十を超えたあたりから胃に鈍い痛みが続くようになり、ついにはデスクで嘔吐して救急搬送された。
診断は、神経性胃炎と軽度の鬱症状。医者に言わせれば「まだ間に合う」段階だったらしい。
会社側も流石にまずいと感じたのか、彼に五日間の休暇を与え、さらに賞与もそれなりに出したという。だが、皮肉なことに、その「猶予」が彼の不安をより濃くした。休暇が終わったら、またあの地獄に戻らねばならない。たった五日で何が変わるというのか。むしろ、五日後の自分を想像するだけで動悸が止まらなかったという。
S氏はある夜、無意識のうちに、荷物を車に積み込んでいた。昔、登山部だった彼が、何度も登ったという地元の山を目指して。真夜中のドライブで、空は徐々に白み、空気が湿っていく頃、山の登山口に着いた。
用意していたのは、ツェルトとシュラフ、最低限の食料と水だけ。
頂上を目指すわけでもない。ただ黙々と歩き、足を前に出すだけ。息が荒くなるたび、胸がきしむたび、脳裏の靄が少しずつ晴れていく気がしたという。
人気のない広場にたどり着いたのは、日が落ちる少し前。そこでツェルトを張り、夕食をとり、冷えた空気の中、久しぶりに安らぎを感じた。自分でも驚くほど、眠気が襲ってきた。
その夜のことだった。
眠りの底から、声が引きずり上げてきたという。
「しににきたのか?」
最初は夢かと思った。いや、半分夢だったのかもしれない。だが、あまりに鮮明だった。薄暗いツェルトの中に、小さな影が立っていた。光を遮るように手をかざしたそれは、肩までの黒髪に赤い着物をまとった、十歳ほどの少女だった。
まったく怖くなかったそうだ。現実感が薄れていたせいかもしれない。
少女はもう一度訊いた。
「なあ、しににきたのか?」
S氏は自然と答えていた。
「……わからない。疲れていた。でも、今は……死にたいとは思わない」
少女はにっこりと笑った。その笑みは、何かを許すような、あるいは赦すような、不思議な安堵を孕んでいたという。
S氏は持っていた飴を少女に渡した。「純露(じゅんつゆ)」という、昔ながらの黄色い透明な飴。少女はそれを手に取り、嬉しそうに舐めた。
「おらも、いれてくれ」
シュラフを指して、そう言った少女を、S氏は拒めなかった。
狭いシュラフの中に、桃のような匂いと細い手足が滑り込んできた。柔らかく笑う少女は、やがてこう言った。
「うたって」
意味がわからず聞き返すと、もう一度、囁くように頼まれた。
思い出すように、S氏は口ずさんだという。「ふるさと」だった。
歌いながら、涙があふれて止まらなかった。自分が何を失い、何に怯え、何を抱えていたのか、そのとき初めて、すべてが理解できたのだと。
少女は何も言わず、静かに彼を抱きしめるようにして寄り添っていた。
翌朝。
ツェルトの外には、朝の光が差し込んでいた。少女はいなかった。
飴の包みはきれいに片付けられ、残った感触は……白くガビガビになったパンツだけだったという。
その後、会社は労働環境の改善に取り組み、S氏も正気を取り戻したように業務に復帰した。
だが、ときおり、彼は上の空になる。
「今でも、ときどき行くんだよ。あの山に」
「また会いたいのか?」
「いや……ただ、あれからずっと、誰かに見守られてるような気がしててさ」
そして、彼は毎回、同じ場所に飴を一粒、供えるという。
赤い着物の少女が、また飴を舐められるように。
(了)