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歌わせる山 rw+3,612

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職場の同僚と居酒屋で飲んでいたときに聞いた話だ。

都内の中小SI企業に勤めていた男の話だった。仮にS氏とする。

炎上案件をいくつも抱え、帰宅は深夜、休日出勤と徹夜が続き、睡眠は一日二、三時間。三十を過ぎた頃から胃の奥に鈍い痛みが居座るようになり、ある日、デスクに突っ伏したまま嘔吐して救急搬送された。診断は神経性胃炎と軽度の鬱症状。「まだ間に合う」と医者は言ったらしい。

会社は五日間の休暇を与えた。

五日後に戻る場所が変わらないことを、S氏は誰より知っていた。

休暇初日の夜、気づくと車に荷物を積んでいた。登山部時代、何度も登った地元の山へ向かっていたという。頂上を目指す気はなかった。ただ、歩けるところまで歩こうと思っただけだった。

真夜中に出発し、夜明け前に登山口へ着いた。持っていったのはツェルトとシュラフ、最低限の水と行動食。山道は湿り、薄い霧が足元にまとわりついていた。

黙々と歩いた。息が荒くなるたび、胸の奥のざわめきが少し遠のいた気がした。人気のない広場に着いたのは日が傾き始めた頃だった。そこでツェルトを張り、簡単な食事をとり、横になった。

眠りに落ちる直前、外で何かが踏む音がした。

枯れ枝を、わざと踏むような音。

夢の中から引き上げられるように、声が降ってきた。

「しににきたのか?」

目を開けると、ツェルトの内側に影が立っていた。入口の隙間から差すわずかな光を背に、小柄な影が揺れている。肩までの黒髪。赤い着物。十歳ほどの少女に見えたという。

怖くはなかった。現実感が薄れていたからか、あるいは、怖がる気力が残っていなかったのか。

少女はもう一度言った。

「なあ、しににきたのか?」

S氏は答えた。

「……わからない。でも、今は死にたいとは思わない」

少女は首を傾げた。笑っているのかどうか、わからない表情だった。

S氏はポケットから飴を取り出した。純露だった。黄色い透明の飴玉を一粒、差し出すと、少女は受け取った。

「おらも、いれてくれ」

シュラフを指した。

断る理由が思いつかなかった。

狭いシュラフに、冷たい何かが滑り込んできた。細い手足が触れた瞬間、体温が奪われるような感覚があった。桃の匂いのような甘い匂いがしたが、それは飴の匂いだったのか、別のものだったのかはわからない。

「うたって」

少女が囁いた。

S氏は「ふるさと」を歌った。声は震え、涙が止まらなかった。歌詞の途中から、自分がどこにいるのか曖昧になった。山なのか、会社のフロアなのか、子供の頃の部屋なのか。

歌い終わったとき、少女の手が胸の上に置かれていた。

冷たいまま、動かなかった。

いつの間にか眠っていた。

翌朝、ツェルトの外は白い霧に包まれていた。少女の姿はなかった。

だが、シュラフの内側に、小さな泥の足跡が二つ、残っていた。子供のものにしては、指が一本多いように見えたという。

パンツは白く固まっていた。汗か、何か別のものかはわからない。

広場の地面には、S氏の足跡しかなかった。

その後、会社は労働環境の改善に取り組んだ。S氏も業務に復帰した。表面上は、問題なく働いているらしい。

だが、彼は今でも月に一度、あの山へ行く。

同じ広場に立ち、同じ場所にツェルトを張る。飴を一粒、地面に置く。そして、誰もいないはずのシュラフの隣に、わずかな隙間を残して眠る。

「また会いたいのか」と同僚が冗談半分で聞いたとき、S氏は少し考えてから答えた。

「いや。会わないほうがいいんだと思う」

それでも行くのか、と問うと、彼は笑った。

「行かないと、歌が止まらないんだよ」

夜中、自宅のベッドで目が覚めると、胸の上に冷たい重みを感じることがあるという。

小さな手の形で。

(了)

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