GWの中日、俺たちは軽い気持ちで山へ出かけた。
といっても登山と呼ぶには生ぬるいハイキングだ。コンビニで買ったおにぎりとペットボトルをリュックに詰めて、近場の低山をいくつか巡っただけ。初夏の風はまるで高原のスープのように澄んでいて、汗をかくほど動いても、空気に熱がこもらないのが心地よかった。
帰宅してシャワーを浴び、冷えたビールを開けた瞬間、笑いが込み上げてきた。なんということもない休日なのに、どうしてこんなに楽しいんだろうと。リビングでごろりと横になりながら、つい友人との会話を思い出して笑ってしまった。
「ヒグマがいないってだけで本州住みは勝ち組だよな」
誰かがそう言った。そう、ここにはあの化け物がいない。俺たちが歩いた山にも、牙を持つ猛獣などいないのだ。虫がしつこく顔を這う程度で、命の危険なんて一ミリも感じなかった。だから俺は、いつもより大きな声で笑った。
だが、その笑い声に反応したように、叔父がぽつりと話し始めた。
「それで思い出した。おまえくらいの歳の頃、妙な話を聞いたことがあったな」
叔父は普段、冗談も武勇伝も滅多に語らない無口な人間だったので、俺はすぐに興味を惹かれた。缶ビールのプルタブを引きながら、続きを促すと、叔父はゆっくりと語り始めた。
「学生の頃、夜間の病院受付でバイトしてた友人がいたんだ。Aってやつな。Aは明るくて要領もよくてな、ナースともすぐ打ち解けて、俺なんかよりずっとモテたよ。病院の夜勤なんて大変そうに思えるが、実際は暇な時間の方が長かったらしい。電話と受付、それだけ。患者が来なければ、ソファで寝てても誰も文句を言わない」
そんな楽なバイトを、Aは同じ大学のBと交代で担当していたという。ところがある日、Bが突然バイトを辞めると言い出したらしい。
「何かあったのか」と訊いても、Bは首を振るだけで、何も語ろうとしなかった。だが、何度も何度も問い詰めるうちに、とうとうBは重い口を開いた。
その夜、Bはいつも通り夜間受付のデスクに座っていた。午前一時を過ぎても病院は静まりかえり、時計の針の音ばかりがやけに響いたという。そこで、不意に救急搬送の連絡が入った。猟でケガをした人間がいると。
「罠にかかったイノシシにとどめを刺そうとして、逆に襲われたんだって」
Bが受付をしていたとき、その男が担架で運ばれてきた。ぐちゃぐちゃの包帯に巻かれた身体。何かが違う、という感覚が、受付越しに漂ってきたという。
「顔、見ちゃったんだ。包帯の隙間から。……あれ、人間の顔じゃないよ」
叔父の語気が少しだけ強くなった。
「その夜、Bは看護師の誰かから、男のカルテを見せてもらったそうだ」
カルテには異様な文字が並んでいた。外国語らしき文章の間に、いくつか日本語のメモが混ざっていた。
「頭部挫傷、顔面多発挫傷、眼球挫傷、鼻切断、耳介切断……両手の指も全部……」
カルテの欄外には、手書きで「縫合箇所 二三〇超」とあった。つまり、顔も、目も、鼻も、耳も、手も……原型を留めていなかったということだ。
「男は運び込まれた直後に死亡したよ。Bはそれ以来、もう病院に近づこうともしなかった」
叔父の話は、そこで終わった。俺は缶ビールの残りを一口飲んで、ふと口に出した。
「……でも、イノシシって、そんなになるまで襲うもんかね」
すると、叔父はほんのわずかに口角を上げて、ひとことだけ言った。
「イノシシにやられたとは、誰も言ってないよ」
その晩、俺はなかなか眠れなかった。目を閉じると、包帯の隙間から覗く“何か”の顔が浮かぶ。ぐちゃぐちゃに潰れて、眼球が潰れ、指という指がなくなったその人間は、いったい何に襲われたのか。あるいは本当に、人間だったのか。
翌朝、ハイキングに行こうと誘った友人たちのグループチャットに、「もう山には行かない」とだけ送った。理由は訊かれなかった。けれど、誰も「行こう」とは言ってこなかった。
いまでも山道に入るたび、風の音が急に止まる瞬間が怖い。木々の間から、何かがこっちを見ているような気がしてならないのだ。
そして、ふと思う。あの病院に運ばれた“それ”は、本当に死んだのか、と。
[出典:84:本当にあった怖い名無し:2012/06/01(金)17:45:25.25ID:82A8RkHW0]