GWの中日、俺たちは軽い気持ちで山へ出かけた。
登山と呼ぶほどでもない、標高三百メートルにも満たない低山だ。コンビニのおにぎりとペットボトルをリュックに放り込み、舗装路と土の道が半々くらいの、気楽なコースを歩いただけ。ヒグマもいない、本州の里山。危険といえばスズメバチくらいのものだ。
山頂で缶コーヒーを飲みながら、誰かが言った。
「ヒグマがいないってだけで、本州住みは勝ち組だよな」
みんな笑った。俺も笑った。牙を持つ猛獣なんていない。ここは安全だ。風は乾いていて、空は高く、足元には整備された登山道がある。それだけで、俺たちはずいぶん恵まれている気がした。
帰宅してシャワーを浴び、ビールを開けたときも、その笑いは残っていた。なんということもない休日なのに、やけに満ち足りている。ソファに寝転がり、昼間の会話を思い出して、また一人で笑った。
その声に反応したように、台所にいた叔父が言った。
「山の話で思い出した」
叔父は滅多に昔話をしない。武勇伝も、怪談めいた話も口にしない人間だ。その叔父が、缶ビールを持ったまま、珍しく椅子に腰を下ろした。
「学生の頃、夜間の病院受付でバイトしてた友人がいた。Aってやつだ。明るくてな、夜勤も苦にしない。電話と受付だけの仕事で、患者が来なければソファで仮眠。楽だったらしい」
そのAと交代で入っていたのがBだった。
ある日、Bが突然辞めると言い出した。理由を聞いても「無理だ」としか言わない。何が無理なのかは言わなかった。だが、Aがしつこく問い詰めると、Bは一度だけ話したという。
その夜、午前一時過ぎ。救急搬送の連絡が入った。猟でケガをした男が運ばれてくる、と。
山の名前を聞いて、俺は一瞬、耳を疑った。
叔父が口にしたのは、今日俺たちが歩いたのと同じ山の名だった。

「罠にかかったイノシシにとどめを刺そうとして、逆にやられたらしい」
担架で運ばれてきた男は、全身が包帯で巻かれていた。血が滲み、包帯はところどころ黒ずんでいた。Bは受付越しに、その顔を見てしまった。
「包帯の隙間から、目が見えたらしい」
叔父はそこで、わずかに間を置いた。
「まばたきしてたそうだ」
だが、カルテにはこう書かれていた。
《搬送時心肺停止》
死亡時刻の欄は、空白だったという。
顔面多発挫傷、眼球損傷、鼻耳欠損、両手指欠損。縫合箇所二三〇超。だが損傷部位の記録よりも、Bが怖がったのは別の部分だった。
「カルテの備考欄にな、受付完了って書いてあったらしい」
それは当たり前の言葉だ。夜間受付の仕事は、来た患者を“受け付ける”ことだ。
だがBは言った。
「俺、受付してない」
その時間、Bは電話口で救急車とやり取りをしていた。担架が入ってきたとき、看護師が走り抜けていったとき、自分は席を外していたはずだと。
それなのに、受付担当者欄には、自分の名前が記されていた。
筆跡はBのものだったという。
翌朝、Bは辞表を出した。Aが何度も連絡を取ろうとしたが、Bはそれきり病院にも山にも近づかなかった。
「その男、死んだのか」
Aが看護師に尋ねたとき、返ってきたのは曖昧な返事だったらしい。
「一応ね」
一応、という言葉の意味を、誰も説明しなかった。
叔父はそこまで話して、缶を傾けた。
「イノシシにやられたとは、誰も言ってない」
それだけ言って、立ち上がった。
その晩、俺はグループチャットを開いた。今日一緒に山へ行った連中に、何気なく送る。
《あの山って、猟も入るんだな》
既読がつかない。
もう一度画面を見て、違和感に気づいた。グループ名が、変わっている。
《夜間受付》
参加者は俺一人だった。
トーク履歴の一番上に、見覚えのないメッセージがある。
《受付完了》
送信者名は、俺だった。
翌朝、スマホの通知音で目が覚めた。
病院からの着信履歴が一件。留守電には何も入っていない。ただ、遠くで風の音のような、擦れる音が続いていた。
山道に入るたび、風が止まる瞬間がある。木々が一斉に黙り込む、あの短い静寂。
あれは、獣の気配ではない。
誰かが、こちらを“受け付けている”気配だ。
俺はもう山に行かないと決めた。
だが、決めたことを、誰に伝えればいいのかわからない。
受付は、もう済んでいるのだから。
[出典:84:本当にあった怖い名無し:2012/06/01(金)17:45:25.25ID:82A8RkHW0]