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庚申原に笑うもの r+5,118-5,541

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今でも、春の宵に吹き抜ける風を耳にすると、あの時の声を思い出してしまう。

それはただの風のざわめきなのか、それとも山中を歩き回る何者かの囁きなのか。判別がつかぬまま、私はこの町に生まれ、この町で年を重ねてきた。広島の御調郡久井町。名も知らぬ他所の人々にとっては地図の端に押し込められた山間の村にすぎないが、ここに住む者にとっては、夜ごと息づく不可解な影が棲みつく場所でもある。

子供の頃、年寄りたちは真顔で「クイゴン」の話を聞かせた。ヒバゴンと同じように猿に似た化け物だと言いながら、どこか人の面影を忍ばせていると囁く。背丈は子供ほど、顔つきは老いさらばえた人間にも似ていて、普段は畑の作物や人の弁当を狙う、妙に人間臭い振る舞いをするらしい。しかし気をつけなければならないのは、その小さな存在に向かって「バカ」などと軽口を叩いた時だ。途端に喉の奥から唸り声が響き、背後を振り向けば、奇妙な影が駆け寄ってくるのだと。

私は子供心にそれを笑い飛ばすことができなかった。夜、布団の中で目を閉じても、耳元で低い息遣いが聞こえる気がして、うなされるように眠りに落ちた。まるで闇そのものが、私の舌の上に残された禁じられた言葉を探りにくるように。

その噂を裏付けるかのように、町には庚申原と呼ばれる場所がある。小さな墓石が風雨にさらされ、苔むした地面に埋もれている。そこにはかつて猿を我が子のように可愛がり、共に暮らした老人が眠っているという。死後も猿たちは墓前に集い、手を合わせるように静かに佇んだそうだ。春の命日には今も猿の群れが山を下り、庚申原に現れると噂されている。実際にその光景を目にした者は、言葉を失い、ただ山神の顕現を見たように膝を折ったのだと。

ところが、そこには一つの不穏な説がある。庚申原の老人は、ただ猿と暮らしただけの者ではない。宇根山の奥深くに残る古い風習、つまり姥捨ての場所に縁ある人物なのではないかというのだ。宇根山の「うね」という言葉には古代の祭祀の痕跡が込められていると民俗学者は言うが、地元の老人たちにとってはもっと生々しい意味を持っていた。年老いた者が食い扶持を減らすために山に捨てられ、朽ち果てる運命を課せられた、その記憶が眠っている場所だ。

ある老人は捨てられながらも奇跡的に生き延び、猿たちと交わって暮らすようになった。その顔つきは次第に人とも猿ともつかぬ異形へと変じ、やがてクイゴンとして人々の恐怖の対象になったのではないか……。そんな話を聞いた時、私の背筋は氷のように冷たくなった。

二十五年ほど前、比婆郡でヒバゴン騒動が新聞やテレビを賑わせた頃、久井町の人々もその熱気に引きずられるように古い記憶を呼び覚まされた。「そういえばここにもおったじゃろう」……。山に潜む見えざる存在を思い出した住人たちは、妙な緊張感に包まれながら暮らすようになったのだ。

私はその頃、山道を一人歩くことが多かった。父の墓参りに向かう道すがら、ふと背後に草の揺れる気配を感じる。振り返っても誰もいない。けれど、空気の奥に「バカ」という言葉が木霊している気がする。自分が口にしたわけでもないのに、誰かがその言葉を私の口に押し込もうとしているような、得体の知れない圧力。

一度だけ、私は庚申原で妙なものを見た。夕暮れの赤みが地面を染める頃、古い墓石の前に腰掛ける影があった。小柄で、背を丸め、片手にはおにぎりらしき白い塊を持っていた。影は私に気づいたのか、顔を上げた。しかしその顔は暗がりに沈み、猿の毛並みにも、老人の皺にも、どちらにも見えた。私は恐怖よりも強い既視感に襲われた。まるで遠い親族の顔を垣間見たような。

次の瞬間、影はふっと消えた。風が吹き、竹の葉が擦れ合い、白い塊だけが墓前に転がっていた。拾い上げると、それは確かに握り飯だった。誰が作ったのか分からぬ、温もりさえ残る不気味な供物。私は手を震わせながら、それを地面に戻した。

あれから年月が経ち、町の人々はクイゴンの話を冗談めかして語るようになった。しかし、春になると私は耳を澄ませる。風が運ぶ声に「バカ」という響きが混じっていないかどうか。あの時、墓前で私を見上げた影は今も山にいるのだろうか。

ひとつだけ確かなことがある。庚申原を訪れた春の日の私の足元には、白いおにぎりが転がっていた。その米粒は、誰かがついさっき握ったように柔らかく、微かに塩の匂いがしていたのだ。

[出典:557 名前: あなたのうしろに名無しさんが…… 03/12/05 14:56]

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