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峠に残された声 r+4,392-4,695

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この話を聞かされた時、妙に肌の下を針で撫でられるような不快感が長く残った。

木村さんがあの夜、体験したという出来事を思い返すと、ただの幻聴や空耳で片づけられない妙な歪みが潜んでいるのだ。

峠にあるドライブイン――すでに店は閉まり、照明も落とされて、巨大な建物はただ黒い塊のように月明かりを反射していたという。舗装された駐車場の上に自転車を置き、その横に寝袋を広げる時、彼はまだのんきに「翌朝、陽が昇ればすぐに町へ下れる」と思っていたらしい。
風は冷たいが夏の夜気はかすかに湿っていて、遠くで山鳥の鳴き声が二度ほど聞こえたきり。あとは人の気配も車の音もなく、ただ静かだった。

眠りに落ちるまでの間、彼は空を眺めていた。白い月が山の稜線の上にぽっかり浮かび、雲一つない。こんなに澄んだ夜に、恐ろしいことなど起こるはずがないと、半ば安心していたそうだ。

目が覚めた瞬間、まず耳に入ってきたのが「声」だった。遠くでちぎれた布を裂くように、男の声がひゅうひゅうと夜気を震わせていた。「助けて」なのか「おいで」なのか、はっきりしない。だが確かに人間の喉が絞り出す音色だった。

彼は最初、遭難者だと考えた。山中には無謀な登山者も多い。真夜中に助けを求めて叫んでいる人がいてもおかしくない。だから寝袋から半身を起こし、声を張り上げて応えた。
しかし返事はない。代わりに男の声が少しずつ、ほんの少しずつ近づいてくる。言葉は崩れ、意味をなさず、ただ舌をもつらせた呻き声のように響いた。

そこで木村さんの背筋を、冷たいものが撫でた。
「こちらに向かっている」
その感覚は、耳だけでなく身体の奥底で理解してしまったらしい。

勇気を振り絞って再度呼びかけた直後、声は途絶えた。あまりに唐突に、息を吸い込む隙間すらなく、ぷつりと切れた。夜の空気が一層濃くなり、山の闇が耳に押し寄せてきた。安心しかけた瞬間、真後ろであの声が爆ぜた。

「おいで……くな……いでえぇぇぇぇぇ……!」

喉の奥を引き裂かれたような絶叫。距離はない。すぐ後ろ、首筋の真上で誰かが叫んでいた。寝袋の布が背中にぴたりと貼りつき、振り向くことなどできなかった。
その恐怖に駆られて、彼はほとんど這うように自転車にしがみつき、ペダルを踏み抜いた。ライトを点ける余裕もなく、月の光だけを頼りに坂を下る。後ろからまだ声がついてくるように感じられ、耳を塞ぎたい衝動を抑えながら必死に前を見た。

峠を抜け、ようやく町の明かりが見えた時には、彼の顔は汗で濡れ、唇は乾ききって震えていたという。

――この話には後日談がある。
木村さんが恐怖の一夜を語ったのは数年後、酒席でのことだった。そこに居合わせた地元出身の男が、顔を曇らせてこう言ったらしい。

「そのドライブインの裏手には古い作業道があってな。昔、トンネル工事で事故があったんだ。助けを呼んでた作業員がいたけど、間に合わずに……」

それ以上は誰も言葉を続けなかった。けれど、その場の誰もが想像してしまった。
あの夜、木村さんの耳に届いた声は、ただ「おいで」と呼んでいたのではない。「来るな」と、必死に拒んでいたのかもしれない。
だとすれば、背後から響いた叫びの正体は……助けを求める亡霊ではなく、彼自身を「巻き込むな」と必死に訴える、別の存在だったのではないか。

その真偽は確かめようがない。ただひとつ確かなのは、木村さんが二度と夜の峠を越えようとしなくなったという事実だけである。

(了)

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