今は亡き祖父が語ってくれた昔話。
祖父、伝次郎の一族は代々マタギの家系だった。
伝次郎が育ったのは、村人全員が家族のように助け合う山奥の小さな集落だった。夏場には周囲の村や町から行商人が訪れるものの、冬になると雪が積もり道が塞がれてしまう。そんな冬場の生活を支えていたのが、伝次郎の家族だった。彼らが山で狩る動物は、村の人々の冬の食糧のほとんどをまかなっていたのだ。
その代償として、伝次郎の家は村で特別な地位を持ち、夏の間は豊かな暮らしを送っていたという。
幼い伝次郎は、兄弟や父親が獲物を仕留めてくることを当たり前のように思っていた。しかし、成長するにつれて、次第に奇妙な疑念が生まれた。
「どうして、こんなにも安定して大量の獲物が手に入るんだろう?」
だが、厳格な父・清蔵にその疑問をぶつける勇気はなかった。黙したまま、思いは胸に秘めた。
15歳を迎え、伝次郎は成人とみなされ、銃を手にして狩猟の訓練を始めた。最初の冬、伝次郎は清蔵から呼び出され、初めて父と二人きりで山に向かうことになった。普段は兄が指導役だったため、これだけでも異例の出来事だった。
清蔵は道なき雪の中を無言で進み、伝次郎はその背中を追った。2時間ほど歩いた先、木々が開けた場所に辿り着いた。そこに立ち止まると、清蔵は黙ってナイフを取り出し、伝次郎に手渡した。
「親指の先を少し切り取れ。血が出る程度でいい。」
無表情な清蔵の言葉に、伝次郎は逆らうこともできず、言われるまま親指の先を切り取った。その切り取った皮膚を、清蔵は血が染みた雪に包んで広場の中央に投げた。その後、清蔵は傷口を火で炙り、止血した。そして突然、空に向かって何発も銃弾を放ったのだ。
帰り道、清蔵は珍しく口を開いた。
「お前も気づいていたんだろう。うちがこうやって暮らしていけるのは、マシャノォ(発音は曖昧)の力があるからだ。」
「今日のはお前の顔見せだ。これからは一人であそこに行け。必ず一人でだ。」
「広場に動物が倒れているはずだ。それを仕留めてから村に持ち帰れ。」
清蔵の話を黙って聞きながら、伝次郎の頭の中には多くの疑問が渦巻いていた。それでも父に問いただすことはなかった。
後日、伝次郎は広場を訪れた。そこにはシカが三匹、血の跡もなく横たわって死んでいた。不思議に思いながらも、伝次郎は言われた通り頭に一発銃弾を打ち込み、それを家に運んだ。それ以来、伝次郎は冬ごとに広場へ通い、理由もわからないまま「死んでいる獲物」を村に持ち帰るようになった。
祖父が語ってくれたのはここまでだった。
祖父の最期は、山で滑落して行方不明になったと聞いている。遺体は未だに発見されていない。曽祖父やその家族もまた墓がなく、どこで眠っているのか誰も知らない。
父は、この話を祖父から聞かされていなかったらしい。なぜ祖父がこの話を自分だけに語ったのか、今も答えは出ない。
俺に何かを託そうとしていたのか?
それとも、ただの気まぐれだったのか?
今となっては、何もわからない。
(了)