彼女には霊感と呼べるものがなかった。
幽霊を見たこともなければ、気配を感じたこともない。そういう話を聞いても、どこか他人事として受け取ってきた。だからこそ、あの一度の体験は、今も現実として整理できないまま残っている。
中学二年の冬、彼女は父を亡くした。突然の事故だった。葬儀が終わり、家が静かになったあと、母は実家へ戻る決断をした。祖父はすでに亡くなっており、祖母の暮らす古い家に、母と彼女の二人が身を寄せる形になった。
転校は避けられなかった。知らない土地、知らない校舎、知らない顔。彼女は必要以上に周囲に気を遣い、泣かないように振る舞っていた。クラスで最初に声をかけてきたのが佐知子だった。席が近く、世話焼きで、放っておけない性格だった。教科書を見せ、休み時間に話しかけ、彼女を輪の中へ引き入れてくれた。
時間が経つにつれ、彼女は少しずつ笑うようになった。その頃、同じ班に布由美という女子がいた。小柄で、肌が白く、声が静かな子だった。どこか目を引く存在で、彼女は理由もなく布由美を意識していた。
話してみると、布由美も母子家庭だと知った。父親は数年前に家を出て戻っていないという。事情を聞いたとき、彼女は胸の奥がわずかに痛んだ。自分とは違う形だが、失われたものがある。その共通点が、距離を縮めた。
ある日、放課後に布由美の家へ行くことになった。どうしてそうなったのか、細かい経緯は思い出せない。ただ佐知子も一緒だったことだけは覚えている。佐知子は布由美を好いていなかったが、その日は特に断る理由もなかったのだろう。
布由美の家は、学校から少し離れた古い住宅地にあった。木造の平屋で、外壁は歪み、板の隙間が黒ずんでいた。家と家の間は狭く、空気がこもっていた。歩くたび、足元の土が湿って沈む感触があった。
玄関で布由美が「おかあさん」と呼ぶと、すぐに女性が現れた。年齢はわからないが、疲れた顔をしていた。それでも、来客を喜んでいるのは伝わってきた。深く頭を下げ、二人を部屋へ通した。
布由美の部屋は畳敷きで、整理されていた。その隅に、それは立っていた。
男のマネキンだった。実物大で、赤い服を着ていた。両腕は肘から曲げられ、妙な角度で止まっている。顔は整っているのに、目には焦点がなく、こちらを見ているようで、見ていない。
彼女は息を止めた。佐知子も声を失っていた。
布由美は何の躊躇もなくマネキンに近づき、帽子の位置を直した。その動きは自然で、乱れた前髪を整えるようだった。
「かっこいいでしょう」
布由美はそう言った。声は平坦だった。
彼女は笑えなかった。冗談だと思えなかった。何かを間違えてはいけない気がして、視線を逸らした。
しばらくして、母親がケーキと紅茶を運んできた。テーブルに皿が並べられたとき、彼女は数を数えてしまった。四枚あった。布由美、母親、彼女、佐知子。そして、残った一枚は、迷うことなくマネキンの前に置かれた。
誰も説明しなかった。誰も笑わなかった。
沈黙の中で、時間だけが過ぎていった。
佐知子がトイレに立ったあと、部屋はさらに静かになった。襖の向こうで、何かが擦れる音がした気がしたが、彼女は確かめなかった。確かめてはいけない気がした。
佐知子が戻ってきたとき、顔色が変わっていた。
「帰ろう」
それだけ言って、彼女の腕を掴んだ。布由美に目を向けなかった。
玄関へ向かう途中、襖が勢いよく閉まる音がした。誰が触ったのか、わからない。振り返らず、二人は外へ出た。
自転車を漕ぎながら、二人とも何も話さなかった。家から離れるほど、胸の奥に張りついた重さだけがはっきりしていった。
安全な場所まで来て、佐知子は言った。
「もう、あの家には行くな」
理由は聞かなかった。聞けなかった。
それから布由美とは自然に距離ができた。話しかけられることもなくなり、彼女も近づかなかった。他の生徒にそれとなく聞いてみても、布由美の家について奇妙な話は出てこなかった。行ったことがあるという子も、「普通だった」と言った。
ただ一人、別の男子が、小さな声で教えてくれた。
家を訪ねたとき、返事がなく、襖の向こうに浴衣姿の男が座っていたと。声をかけても動かず、怖くなって帰ったと。
十四年が過ぎた今も、彼女は答えを持っていない。あれが何だったのか、誰にも説明できない。赤い服の男のマネキン。皿の数。誰も見ていないはずの存在。
今も時折、ふとした拍子に思い出す。見られていたのは、あの時、どちらだったのか。
(了)