七年前の六月、夜十時。家の固定電話が鳴った。
いまどき鳴ることの少ないその音が、やけに部屋に響いた。受話器を取ると、馬場だった。
「説明できない。でも、来てくれ」
息が浅く、言葉の間が不自然に長い。川越の外れに引っ越したばかりの、あの大きな家のことだとすぐにわかった。冗談を言う調子ではない。迷う理由はなかった。
車の鍵を持って玄関に向かった瞬間、ドアが叩かれた。開けると、茅野が立っていた。なぜか一升瓶を抱えている。
「おまえ、いまから馬場のとこ行くやろ」
確認ではなかった。断定だった。
事情を話す前から、茅野は靴を脱がずに上がり込む勢いだった。「一人で行くな。あいつの家、よくない」と言う。根拠は示さない。ただ、嫌な感じがする、と。
三十分ほど走ったあたりで、茅野がフロントガラスを指さした。
「見えたか?」
「何が」
「赤いの。立ってた」
道路脇の街路樹しか見えなかった。だがそのあと、車内の温度が少し下がった気がした。エアコンは切っていた。
家は高速道路の側道を抜けた先、林に半分呑まれるように建っていた。庭の雑草は膝丈まで伸び、窓はどれも暗い。灯りがついているはずなのに、光が外に漏れていない。
玄関を開けた瞬間、鼻の奥に湿った匂いが入り込んだ。動物の匂いに似ているが、もっと古い。閉じ込められた布団のような、乾ききらない空気。
「猫、飼ってるのか」
「いない。近所にいるだけだ」
馬場はそう言いながら、視線を奥へやった。
一階はどの部屋も薄暗い。二階の練習部屋だけが生活の気配を保っている。そこへ上がると、窓は閉まっているのに妙に冷えていた。外には枯れ木が一本、風もないのに揺れている。
「一階で寝ると、必ず夢を見る」
馬場は壁に背を預けたまま言った。
「話し声がする。足音も。引っ越した日、ゴルフクラブが一本、台所に立てかけてあった。誰のかわからない。処分したのに、翌日またあった」
冗談には聞こえない。茅野は笑わない。
「昨日、物音がして降りたら、玄関が開いてた。猫がいた。でも外に逃げようとしない。廊下の奥を見て、固まってた」
台所へ降りた。四隅に破れた札が貼られている。剥がしかけて、途中でやめたような痕だ。床の中央に、煤のような黒ずみがある。犬の顔に見えなくもない。
足裏がじわじわ痺れた。冷気が下から上がってくる。
「ここは使うな」
それしか言えなかった。
帰る前、馬場は二階の布団に横になった。目を閉じると、呼吸が急に浅くなる。数秒後、部屋の空気が重くなった。天井が低くなったような圧迫感。布団の上に、もうひとつの重みが加わる。
姿は見えない。ただ、ある。
茅野が小声で何か唱えた。言葉は聞き取れない。圧はゆっくりと薄れた。馬場が目を開ける。
「また同じ夢だ。赤い着物の子と、その後ろにいる母親」
夢の内容を説明しようとして、言葉が途切れた。
数日後、あの夜に撮った写真を現像した。家の外観の隅に、小さな赤い点が写っている。光の反射にしては位置が不自然だった。フラッシュは使っていない。
拡大すると、点の周囲だけがわずかに歪んでいる。
馬場は結局、バンドを解散し、家を出た。引っ越しまでの間、機材が壊れ、メンバー同士の衝突が続いた。理由はどれも説明がつく。だが重なり方が異様だった。
私自身も、その後しばらく肩の重さが抜けなかった。夜中に目を覚ますと、玄関の方向から気配を感じることがあった。
あの家は、いまもそこにある。取り壊されたという話は聞かない。
ときどき思う。あの赤い点は、あの夜からずっと、どこかに残っているのではないかと。写真の中ではなく、私たちの側に。
(了)