栃木リンチ殺人事件とは、1999年12月4日に栃木県で発覚した複数少年らによる拉致・監禁・暴行・恐喝・殺人・死体遺棄事件
1999年12月、栃木県で発覚した「栃木リンチ殺人事件」。
それは、少年たちが無抵抗な若者を拉致し、執拗な暴行を繰り返した末に殺害し、遺体を遺棄した残虐な犯罪だった。
この事件は、暴行の凄惨さだけでなく、警察の不手際によっても多くの非難を浴びることになる。被害者の家族は何度も警察に助けを求めたが、冷淡に拒絶されるばかりだった。
主犯格であるAは警察官を父に持つ19歳の青年だった。彼は幼少期から粗暴であり、暴走族に所属して恐喝や傷害事件を繰り返していた。
その標的にされたのが日産自動車に勤める19歳のXである。
Aは他の加害者少年らとともに、Xを拉致し、2か月間にわたって監禁。次々と借金を強要し、暴力を振るい続けた。
監禁中、彼らはXに火炎放射器のような暴行や熱湯を浴びせるなど、想像を絶する虐待を加えた。被害者の体は火傷で覆われ、顔は腫れ上がり、まともな医療も受けられない状態に追い込まれていた。
この間、Xの両親は息子の行方を心配し、警察に9回もの捜査依頼を行った。しかし警察は「息子が勝手に遊んでいるのではないか」と取り合おうとせず、他の署に訴えても同じような冷淡な対応に終始した。
状況が悪化する中、両親は独自に調査を進め、加害者の名前や監禁の事実を掴む。しかし、それでも警察は動こうとしなかった。
Xは、金を引き出すため銀行に現れることがあった。その様子は防犯カメラにも記録されており、Xが暴力を受けた痕跡がはっきりと映っていた。しかし警察は、この映像が提供可能であるとの銀行関係者の申し出すら無視した。
さらに、警察官がXに電話で話しかけた際、その不用意な言動が加害者たちに捜査の進展を察知させた。このことで、加害者はXの殺害を決意したとされる。
12月2日、Aらは監禁していたXをついに殺害する。
犯行に加わっていた高校生D(16歳)も共犯となり、彼らは山林でXの遺体を埋め、コンクリートを流し込んで隠蔽した。その費用には、Xの最後の給料が充てられていた。殺害後も彼らは「15年逃げ切ればいい」と語り、無邪気に花火で遊ぶなどしていた。
しかし、良心の呵責に耐えきれなくなったDが12月4日に警視庁三田警察署に自首することで、事件は明るみに出た。Dの証言をもとに、捜査本部はすぐにXの遺体を発見し、加害者たちを次々と逮捕した。
事件の発覚後、当初の報道は警察の提供する情報に基づき、Xを「元暴走族」として描いていた。そのため、世論は「不良同士の喧嘩」として事件を軽視していた。しかし、宇都宮地方裁判所での公判が始まると、裁判を傍聴した記者たちが報じた事実は全く異なるものだった。
産経新聞が栃木県版で連載記事を掲載し、その後、写真週刊誌やテレビ番組が取り上げたことで、事件の凄惨さや警察の不手際が広く知られるようになった。
特に批判を浴びたのは栃木県警の対応だ。Xの両親からの訴えを無視し続けた警察官たちは、世論の圧力により後に懲戒処分を受けたが、最も重い処分でも「停職14日間」にとどまった。この処分の軽さもまた批判を招いた。
裁判の過程では、加害者たちの残虐性が次々と明らかになった。Dは自首したことが評価され、少年院送致となったが、主犯のAや共犯のB、Cは刑事処分を受けた。
宇都宮地方裁判所は、AとBに無期懲役、Cには懲役5~10年の判決を言い渡した。
Aは控訴したものの、東京高等裁判所と最高裁判所で棄却され、刑が確定した。裁判中、Aはリンチの詳細を問われた際、「楽しかった」と発言するなど、反省の色を見せなかった。
一方で、Xの両親は警察の捜査怠慢が息子の死に繋がったとして、国家賠償法に基づき民事訴訟を起こした。
この訴訟では、栃木県警の対応が厳しく問われることになる。
裁判の初期段階で県警は捜査ミスを認め謝罪したものの、裁判では「電話に名乗ったことはない」などと供述を翻した。その発言は宇都宮地方裁判所によって「全く信用できない」と一蹴され、2006年、県警の怠慢とXの殺害との因果関係を認定する判決が下された。
この判決は、警察の不作為を正面から問う画期的なものであり、Xの遺族の主張を全面的に支持した。
しかし、判決は加害者の保護者の監督責任については認めず、遺族は控訴を決意。一方で、栃木県も判決に不服を申し立てた。
県は「警察官の証言が信用されなかったことが警察組織の士気を損なう」として控訴理由を述べている。
2007年、東京高等裁判所は栃木県警の怠慢を認めつつも、「怠慢がなければXを救出できた可能性は3割程度」と判断。賠償額を大幅に減額し、約1100万円の支払いを命じた。しかし、「3割程度」という根拠が明示されず、被害者側に7割の責任があるとする内容に、遺族は強い不満を抱いた。
最終的に、被害者遺族は最高裁判所に上告したが、2009年3月、最高裁は上告を棄却。東京高裁の判決が確定した。この結果、遺族にとって裁判は事実上の敗北となり、警察の怠慢に対する責任追及は不完全な形で終わった。
この事件では、Xが勤めていた日産自動車の対応にも非難が集中した。Xは拉致監禁され、出勤できない状態が続いていたにもかかわらず、会社側はその背景を調査することなく、欠勤を理由に諭旨退職処分とし、退職金の支給も拒否した。事件の詳細が明らかになってからも、日産はこの処分を撤回することなく、被害者の遺族への謝罪や追悼の意も示さなかった。この冷淡な対応に、被害者の父親は深い憤りを抱いた。
事件後、栃木県警や日産の対応は、社会全体に衝撃を与え、警察や大企業への信頼感を大きく揺るがした。
この事件は、同時期に発生した「桶川ストーカー殺人事件」と並び、警察の対応能力や倫理観に対する問題提起となった。
しかし、警察の対応に関する再発防止策や企業の危機管理体制の見直しが徹底されたとは言いがたい。事件から年月が経過しても、遺族の悲しみと社会の教訓は残り続けている。
[出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/]