大宮看護婦バラバラ殺人事件とは
2001年4月7日、大宮赤十字病院(現・さいたま赤十字病院)に勤務する当時23歳の看護婦金田が、同僚看護婦:永田悦子(よしこ)さん(23歳)を、一人の男をめぐる三角関係のもつれから金田の自宅アパートで絞殺。浴室でバラバラに解体して二ヶ所のゴミ集積場に棄てた残忍な事件。
事件は、三田和也(仮名)のデジタルカメラにあった永田さんの肌着姿の画像を、三田の恋人であった金田がみつけたことからはじまる……
金田は、埼玉県越谷市で、昭和52年11月17日に生まれた。金田は中学に進むと吹奏楽部に入る。
彼女の6歳年上の三田は、楽器の修理業者として学校に出入りしていて、二人は知り合った。
ただし、三田が楽器の修理業者だったというのは金田の話にしか出てこない。
事件発生の2001年に、三田は大手自動車メーカーの工場の期間工として働いていたということはわかっている。
金田が進学した越ヶ谷高校でも、やはり三田が出入りしていて、さらに親しくなる。
金田が高校3年生になった1995年、二人は恋人同士となった。
金田にとって三田は、初めての男性であった。
金田と永田さんは、1996年4月、大宮赤十字病院看護専門学校に入学。家が近かったことから親しくなり、映画やカラオケに行く仲になった。二人は金田の自宅アパートで一緒に看護婦国家試験の勉強をした。
その後、揃って試験に合格し、看護婦として大宮赤十字病院に勤務。
その後も一緒に旅行に出かけるなど、親しく交際を続けていた。
何でも話し合う仲。お互いの恋の話もする。三田を交えて、三人で食事するということになったのは、自然の成り行きだろう。
だが、何度も三人で食事するうち、三田と永田さんは惹かれあうようになり、やがて二人きりで会うようになり肉体関係を持つようになる。
三田のデジカメにあった永田さんの肌着姿の画像を見て、金田が二人の関係を知ったのは2001年1月のことだった。
金田は二人を問い詰め、二人だけで会わない約束をさせたが、約束は守られずその後も関係は続いた。
約束を守らせたい……そう考えた金田は、自宅に永田さんを招いた。
4月6日のことである。
酒を呑んで世間話をしていたが、「三田と連絡を取っているのか」「約束を守るつもりがあるのか」と問い詰め始めた。
だが永田さんは「三田さんはあなたにうんざりしている」と答え、彼が金田と別れたがっているとほのめかしたのである。
この言葉に金田は逆上し殺害を決意した。
トイレに行こうと立ち上がった永田さんの後ろから、パンティストッキングを彼女の首に巻き付け、思いっきり引き絞った。
体をけいれんさせながら永田さんは倒れる。
金田は、永田さんの首と手の動脈を指で確認し、窒息死したことを確かめた。
金田は永田さんの遺体を、五日間かけてアパートの風呂場で、糸鋸や包丁、フードプロセッサなどを使って遺体を解体。
自宅から離れた2カ所のゴミ集積所に遺棄した。
事件が明らかになったのは三か月経った7月19日。
金田が大宮警察署に自首したからだ。
その前日、金田は三田に永田さん殺害の事実を打ち明けている。
驚愕の事実を知らされた三田は、あろうことか金田にプロポーズしたのである。
その時の心境を三田は、
「友人を殺害してまで私のことを思ってくれる金田とずっと一緒にいたいと思った」
と、その後の法廷で証言している。
金田もその気持ちを受け入れた。
自首して裁判になってからも、三田と結婚したいと願い続けたのである。
この奇妙なやりとりを含めて、三田も事件に関わっているのでは?と公判では追求されたが、ついに三田が被疑者となることはなかった。
2003年2月28日
さいたま地裁は、
『ひたすら事件と無関係を装い、平然と勤務や男性と交際を続け、良心の呵責は感じられない』
として、金田に対して、懲役十六年の刑を言い渡した。
『看護師という生命を預かるあなたが、親友の命を奪ってしまった刑事責任はこれ以上問われませんが、どうやって被害者や遺族に償うか考えなさい』
と裁判長が語りかけると、金田は深々と頭を下げた……
(了)