あれは、都内の外れにある、小さな居酒屋の話だ。
駅前の喧騒から一本裏へ入った場所にあり、看板も目立たない。知っている者だけが通う、十数席ほどのカウンターだけの店だった。
夕方になると、決まった顔ぶれが静かに暖簾をくぐる。仕事帰りの男たち、近所に住む年配の夫婦、一人で飲む客がほとんどで、騒ぐ者はいない。酒も肴も特別なものはないが、余計な干渉をしない空気だけは、妙に居心地がよかった。
五年ほど前、その店に、いつの間にか混じるようになった男がいた。
年は四十代後半から五十前後。くたびれてはいるが、だらしなさはない。毎回、同じ濃紺のスーツに白いシャツ。ネクタイはしていないが、襟元はきちんと整っていた。髪にも白いものが混じっていたが、乱れてはいない。
頼むものは決まっている。瓶ビール一本、焼き鳥を数本。それ以上も、それ以下もない。飲む速さも一定で、一時間を少し過ぎる頃には、必ず席を立つ。
不思議なのは、彼が誰とも話さないことだった。挨拶もしない。無愛想というより、最初から周囲が視界に入っていないような、妙な距離感があった。声をかけられても、顔は向けるが、口は開かない。ただ一瞬だけ相手を見る。その視線が、妙に重かったという。
常連たちは、次第にその男を話題にしなくなった。触れてはいけないもの、という暗黙の了解ができあがっていた。
ある晩、その均衡が崩れた。
いつものように男はカウンターの端に座り、黙ってビールを飲んでいた。店内には、数人の常連が散らばっている。ちょうど一人の客が遅れて入ってきた。常連の中年男性で、店主とも顔なじみだ。
その男が暖簾をくぐった瞬間、カウンターの端から、荒い声が飛んだ。
「帰れ」
低く、はっきりした声だった。
店内が一瞬、静まり返った。誰も自分に向けられた言葉だと思わず、視線だけが動く。次の瞬間、声はさらに大きくなった。
「今すぐ帰れ。女房を病院に連れていけ」
怒鳴るというより、叱責に近い。感情がむき出しになった声だった。誰もが凍りついた。あの無口な男が、初めて言葉を発した。それも、他人の家庭に踏み込むような内容で。
言われた当人は、冗談だと思ったらしい。笑って受け流そうとしたが、男の表情を見て、言葉を失ったという。顔色が変わっていた。怒っているのではない。必死だった。
「早くしろ」
男は立ち上がりもしない。ただ、同じ言葉を繰り返す。声の調子も、視線も変わらない。店の空気が、じわじわと濁っていくのが、誰の目にもわかった。
店主が間に入ろうとしたが、男はそれすら無視した。目はただ一人の常連客だけを追っている。懇願するようでもあり、命令するようでもある。理由は一切語られない。
周囲の客たちが、居心地の悪さに体をずらし始めた。「なんだか嫌な感じがする」と、小声で呟く者もいた。根拠はない。ただ、そこにいるのが危険だという感覚だけが、確かにあった。
結局、その常連客は席を立った。怒鳴られたからでも、説得されたからでもない。自分でも説明できない衝動に突き動かされたのだという。
その夜の出来事は、それで終わった。
数日後、その常連客が店に戻ってきた。顔色は悪く、酒もほとんど口にしなかった。ぽつりぽつりと、あの夜の後のことを話し始めた。
帰宅すると、妻は横になっていた。具合が悪いと言い、早く休んでいたらしい。普段なら気にも留めない程度の様子だったが、あの声が頭から離れなかった。結局、無理に起こして外へ連れ出した。
病院では、慌ただしく人が動いた。説明を求める余裕もなく、書類にサインをさせられ、廊下で待たされた。結果だけを告げられた時、医師は言葉を選んでいたという。
それ以上の詳細は、誰も深く聞かなかった。
話を聞いていた店内は、妙に静かだった。誰も安堵の言葉を口にしなかった。ただ、全員が同じことを考えていた。あの男は、なぜ知っていたのか。
だが、翌日から、あの男は店に来なくなった。
一週間経っても、二週間経っても姿は見えない。店主は電話番号も名前も知らない。常連たちも、男のことを何も知らなかったことに気づく。
店主はぽつりと、「ああいう人は、長く同じ場所にいない」と言った。それ以上は何も語らなかった。
それからしばらくして、妙なことが起き始めた。
あの夜、店に居合わせた客の中で、数人が同じ夢を見るようになったという。暗い室内で、カウンターの端に座る男の背中を見ている夢だ。男は振り向かない。ただ、低い声で同じ言葉を繰り返す。
「早くしろ」
夢の中で、それが誰に向けられているのかはわからない。だが、聞いている自分だという確信だけがある。
目が覚めると、妙な胸騒ぎが残る。その日一日、何も起きなくても、安心はできない。何かを見落としている気がしてならない。
常連たちは、もうあの話をしなくなった。話題にすると、また呼び寄せてしまう気がするからだという。
今でもその居酒屋は、変わらず営業している。十数席のカウンターも、静かな空気も同じだ。
ただ、カウンターの端の席だけは、いつも少し空けられている。誰も頼んでいないのに、自然とそうなった。
あの男が何者だったのか、なぜあの夜だけ声を上げたのか、それを確かめる術はない。
ただ、次にあの声を向けられるのが、自分でないとは、誰も断言できないままでいる。
[出典:647 本当にあった怖い名無し 2011/07/10(日) 22:05:40.24 ID:crYVykSK0]