怖い話というより、今でもエレベーターに乗る前に、階数表示を見てしまうようになった話だ。
某県のS市で働いていた頃、俺の勤めていた会社は、駅から少し外れた古い雑居ビルの四階に入っていた。壁は煤け、雨の日になると窓の隙間から細い風が入った。床は妙に硬く、夜に歩くと、自分の足音だけが廊下の奥で一拍遅れて返ってくる。
そのビルには、よくない噂があった。
トイレの個室から、誰もいないのに水を流す音がする。消したはずの照明が勝手に点く。深夜、給湯室の前で誰かが立っている。そんな話を何度か聞いた。
入社して三日で辞めた新人もいた。
理由を聞くと、トイレの一番奥の個室に、黒い影がずっと立っていたという。ドアの下から足が見えたのではない。個室の中ではなく、閉まったドアの表面に、影だけが人の形で貼りついていたらしい。
俺は、そういう話をあまり信じていなかった。
信じていないというより、自分には関係がないと思っていた。霊感などないし、残業で夜遅くなることも多かったが、足音も影も見たことがない。怖がる同僚を見て、内心では少し大げさだと思っていた。
その日は、同僚のTと二人で残業していた。
時計は二十二時を少し過ぎていたと思う。フロアの蛍光灯は半分ほど消されていて、窓の外には向かいのビルの非常灯だけがぼんやり映っていた。
「帰るか」
Tがそう言った。
俺もパソコンを落とし、机の引き出しを閉めた。Tは自分のデスクに置いていた青いマグカップを軽くすすいで、給湯室の棚に戻した。いつもの動作だった。俺はそれを見ていた。
二人で事務所の鍵を閉め、エレベーターホールへ向かった。
そのビルにはエレベーターが二基あったが、片方は十年以上前から停止中だった。残る一基も古く、ボタンの脇の金属板は手垢でくすみ、階数表示のランプはよく点滅していた。
Tが下向きのボタンを押した。
しばらくして、壁の奥から低い音が近づいてきた。ゴウン、と古い機械が息を吐くような音がして、扉が開いた。
中には誰もいなかった。
俺とTは乗り込んだ。Tが一階のボタンを押した。扉が閉まり、箱がゆっくり沈みはじめる。足の裏に、あの独特の浮く感じがあった。耳も少し詰まった。
だが、階数表示は「4」のままだった。
「表示、壊れてるな」
俺が言うと、Tは返事をしなかった。
顔を見ると、Tは扉の隙間をじっと見ていた。エレベーターの扉は閉まっている。隙間などない。それでもTは、そこに何か見えているような顔をしていた。
箱が止まった。
扉が開いた。
四階だった。
目の前に、さっき出てきたばかりの廊下があった。右手にはうちの会社の扉。左手には非常階段へ続く短い通路。壁の汚れも、天井の蛍光灯のちらつきも、見慣れた四階そのものだった。
「おい、なんだこれ」
Tが笑った。だが、その笑い方はおかしかった。音だけを口から出したような笑いだった。
「もう一回押してみるか」
俺はそう言って、一階のボタンを押した。今度は自分で押した。ボタンは点灯した。
扉が閉まる。
また沈む。
足裏の感覚もある。内臓が少し遅れて落ちるような、あの感じもある。だから、動いていないはずがなかった。
表示は、やはり「4」のままだった。
Tは黙っていた。俺も黙っていた。機械音だけが、箱の上の方から降ってきた。
やがて止まった。
扉が開いた。
また四階だった。
ただ、少しだけ違っていた。
会社の扉が開いていた。
さっき俺が鍵をかけたはずの扉が、十センチほど開いている。中は暗い。だが、コピー機の液晶だけが青白く光っていた。
俺は、背中が冷たくなった。
「鍵、閉めたよな」
そう言うと、Tは俺を見なかった。
「戻るな」
それだけ言った。
Tが先にエレベーターを降りた。俺も降りた。だが、会社の中には入らなかった。廊下の空気が、さっきと違っていた。人のいない夜のビルの空気ではない。人がたくさん通ったあとのような、ぬるく湿った匂いがした。
俺たちは非常階段へ向かった。
そのとき、背後でエレベーターの扉が閉まる音がした。
振り返ると、階数表示は「4」のまま光っていた。
一階まで階段で降りた。Tは一言も話さなかった。外へ出ると、夜風が妙に生ぬるかった。春でも夏でもない時期だったのに、肌に貼りつくような風だった。
ビルの外で、俺はようやく息をついた。
「明日、総務に言おう」
そう言うと、Tがこちらを見た。
「お前、何の話してるんだ」
俺は意味が分からなかった。
「エレベーターだよ。四階に戻っただろ」
Tは、しばらく俺の顔を見ていた。
「俺、階段で降りたぞ」
その言い方が、冗談ではなかった。
俺は笑おうとした。だが、声が出なかった。
Tは続けた。
「お前がエレベーター乗るの見たあと、嫌な感じしたから階段で降りた。下で待ってたら、お前も階段から降りてきた」
「一緒に乗っただろ」
「乗ってない」
「マグカップ、棚に戻してたよな」
「戻してない。今日は使ってない」
その場で、それ以上話せなかった。
翌朝、総務にエレベーターの件を報告した。業者が来て点検したが、異常はなかった。運行記録も正常だった。四階から一階へ、一度だけ移動した記録が残っていたという。
一度だけ。
俺が覚えている二回分の降下は、どこにも残っていなかった。
Tはその日、会社に来なかった。
翌日も来なかった。
三日後、退職の連絡があった。実家の都合ということになっていた。送別会もなかった。彼の机はきれいに片づけられていて、私物は一つも残っていなかった。
ただ、給湯室の棚に、青いマグカップがあった。
Tがいつも使っていたものだった。
俺はそれを見つけたとき、総務に言おうとした。だが、やめた。誰に何を言えばいいのか分からなかった。Tは、あの日は使っていないと言っていた。俺は、Tがすすいで棚に戻すところを見た。
そのどちらが本当なのか、今も分からない。
それから俺は、会社にいる間ずっと階段を使った。四階まで上がるのは面倒だったが、エレベーターには乗れなかった。あの箱に入ると、また四階に戻る気がした。
いや、戻るだけならまだいい。
あのとき、俺と一緒に乗っていたTが、本当にTだったのか。
そこを考えると、どうしても足が止まった。
数年後、俺は別の会社に転職した。S市からも離れた。あのビルが今もあるのかは知らない。調べれば分かるのかもしれないが、調べたくない。
ただ、今でも古いエレベーターに乗ると、必ず階数表示を見る。
数字がちゃんと動いているか。
扉が開いた先が、本当に降りるはずの階か。
それから、もうひとつ。
一緒に乗っている人が、さっきまで隣にいた人と同じかどうか。
たいていは、何も起きない。
けれど一度だけ、別のビルで、階数表示が消えたことがある。
そのとき中にいた見知らぬ男が、俺の方を見て、こう言った。
「四階で降りるんでしたよね」
俺は、行き先のボタンを押していなかった。
[出典:49 :本当にあった怖い名無し:2022/03/10(木) 11:14:52.71 ID:InC4UuMw0.net]