ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

右側だけが増えていく n+

更新日:

Sponsord Link

今でもあの夏の午後の熱気を思い出すと、耳の奥で受話器の無音がぶるぶる震えるように感じる。

汗で指先がぬめるたび、ポケットの中の硬い紙片が擦れ合って、小さな音を立てた。小学四年の終わり頃から三年ほど、私はテレフォンカードを拾い集めていた。集めるといっても、登下校の途中で電話ボックスを覗き込み、落ちている使用済みのカードを拾うだけのことだ。家に帰ると箱にしまい込む。親には叱られなかった。むしろ無関心で、それが私には都合よかった。誰にも邪魔されない、ひとりきりの収集だった。

舞台は郊外の国道沿いだ。道幅は広く、夏草に蝉の声が溺れている。交差点の角ごとに電話ボックスが立っている。透明な壁は薄く曇り、天井の蛍光灯は昼でも白く濁って点っていた。足元には砂が積もり、拾い集められなかった吸い殻が埋もれている。あの頃、携帯電話は遠い噂で、ポケベルの音も教室にはまだ届いてこなかった。だから、電話ボックスには人の匂いが残っていて、扉を引き開けると、誰かの息が薄く漂ってきた。私は一日に三枚ほどを拾い、箱に入れては度数の小さな穴の列を眺めた。穴は雨粒の化石のようで、私はそれを指でなぞり、心の奥で何かを数える真似をした。

最初の異変は、白地に青い字のカードだった。手描きではない、印刷の滑らかさ。裏面には何もなく、表にただ一行『〇〇店の右側』とだけある。〇〇は繁華街にあるレンタルビデオ店の名で、私は母に連れられ一度入ったことがあった。右側……何の右側だろう。店の右隣は駐輪場で、その右に市営の駐車場があったはずだ。私は眉をひそめ、カードを光に透かしてみた。穴の列はきちんと詰み、残り度数は十六ほどに見えた。誰かが一度だけ使って捨てたのだろうか。なのに、青い字は私の目を離させない。私はその夜、布団の中で『右側』の右側を考えた。右側の右側、そのさらに右側、と途切れなく続いていく階段のような感覚が、眠りの縁で足元を抜いた。

土曜日、私は一人でバスに乗り、終点から歩いて〇〇店へ向かった。昼前の空気はぬるく、店の自動ドアが吐き出す冷気に肩をすくめた。店の前には三つ並んだ電話ボックス。左、中、右。扉のガラス越しに内側を覗くと、右端の床に一枚の白いものが落ちていた。扉を引く。中は新しい雑誌の匂いがかすかに混じった湿り気。拾い上げると、前のカードと同じ白地に青い字。今度は『国道沿い、黄いろい橋のたもと』とある。残りは十五。私は喉の奥がからからに乾くのを感じ、指を吸って唾を補ってから、二枚のカードを重ねてポケットに戻した。

私は単純に興奮していた。漫画みたいな仕掛けが現れた。カードの度数が一つずつ減っていく。十六、十五、この調子で一までいったらどうなるのだろう。私の頭の中で小さく鈴が鳴り続けた。家に帰ると、私は箱を開け、一番上に白い二枚を置いた。寝る前に何度もそれを取り出しては読み、背筋に小さな風が立つのを楽しんだ。

数日後、私は友達を二人誘った。彼らは私の話を疑いながらも、カードの白さと青さに沈黙した。三人で『黄いろい橋』を探しに行くと、国道を跨ぐ歩道橋の塗装が褪せてからし色になっているのを見つけた。橋のたもとには古くて狭い電話ボックスが一つだけ立っている。扉を押し開けると、やはり床の角に白いカードが傾いていた。拾うと『ゲームの音が煮える場所』とある。度数は十四。意味が曖昧で、私たちは顔を見合わせた。

友達の一人に十歳ほど年の離れた兄がいた。放課後、彼の部屋に押しかけると、胡坐をかいた兄はカードを一枚ずつ眺め、ふ、と鼻で笑った。『繁華街のボウリング場のゲームコーナーだろ』と言い、場所を教えてくれた。週末、私たちはバスを乗り継ぎ、繁華街の中心にある古い建物に入っていった。靴の音が響く廊下を抜けると、空気が急に騒がしくなる。ゲーム機の電子音が泡のように膨らんでは弾け、金属の匂いと人の汗が熱に溶け合っている。そこにも電話ボックスが、壁の影の中にひっそりと置かれていた。私が扉を開けると、床に白いカード。『駅の裏の裏』。度数は十三。駅の裏の裏はどこだ、と私たちはその場で地図のない迷路遊びを始めた。

このあたりから、記憶は曖昧になる。白いカードは私たちを思いがけない場所へ連れていった。公園の公衆便所の向かい、河川敷のベンチの影、団地の広場の木の根元。どの場所にも、不釣り合いなほど古い電話ボックスがひとつだけ残っていて、扉はわずかに軋み、天井の明かりは昼でも点いていた。拾うたび、青い字はどこか楽しげで、度数は地道に減った。十二、十一、十……。私の心は浮遊し、胸の内で薄い紙の束がぱたぱたと羽ばたく。友達は途中で飽き、私ひとりで歩く日も増えた。家に帰ると、私は白いカードをほかの使用済みと分けて机の引き出しにしまった。夜、私は布団の中で目を閉じ、青い文字のにじみの形をなぞった。そこには、人の指先の温度のようなものが残っている気がした。知らない誰かに手を引かれている、というより、過去の自分に呼び戻されているような、くすぐったい感覚だ。

やがて度数は一桁に落ちた。九、八、七。拾ったカードに、見知らぬ地名が現れ始めた。友達の兄に訊ねても首をかしげるだけ。本屋の地図を立ち読みし、指で辿る。見つからない。そこだけが地図から消されているみたいに。私は焦り始め、夢の中で電話ボックスを巡った。透明な壁に映る自分の顔はぼやけ、口の動きだけが早回しになっている。受話器を耳に当てると、無音の底で長い息を吐く誰かがいる。その息が、白いカードの表面を曇らせている気がした。

私は探すことに疲れて、一度箱を閉じた。学校では運動会があり、季節は秋へ滑っていった。白いカードの連鎖は、私の中で宙ぶらりんのまま、薄く残響した。やがて冬になり、私は別の遊びに心を奪われ、カードのことは忘れた。箱は押し入れの奥へ、白い二枚は机の引き出しの底へ。

……年月が流れ、私は大人になった。引っ越しの荷造りをしていたある晩、古い箱が出てきた。開けると、黄ばんだ使用済みのカードが束になっている。私は指に埃をつけたまま、白い二枚を探した。案外あっさり見つかった。光にかざすと、青い文字は当時のまま濃く、穴の列は規則正しい。私は指で度数の穴を数えようとして、ふと止まった。十六の穴が……十七ある。数え間違いかと思って数え直しても、やはり十七。もう一枚は十五のはずが十六。私の記憶は乾いた音を立て、どこかが剥がれた。残り度数は増えている。増えるはずがない。私は笑おうとして、笑い損ねた。

引っ越し先は、かつて通った国道沿いの町からそう離れていない。懐かしさに負け、私は夜の散歩に出た。歩道の端で風が揺れ、あの頃の電話ボックスがまだいくつか残っている。ひとつの扉を開けると、蛍光灯がじ、と微かな音を立てた。床に白いカードが落ちている。拾うと、同じ白地に青い字が浮いていた。『〇〇店の右側』。私は手の中の時間が逆流するのを感じた。次の瞬間、掌に乗っているカードの穴がじわりと一つ増えた。増えた、としか言いようがない。穴は濡れた目玉のように光り、私は息を飲んだ。

私は考え違いをしていたのかもしれない。カードの度数は、誰かが使うたび減るのではなく、誰かが見つけるたび増えるのだろうか。私が拾い、友達が覗き、兄が眺め、本屋で指を滑らせる……そのたびに、何かが蓄積される。電話はかけられていないのに、回線の向こうでは何かが集まり、重なり、ふくらむ。あの頃の私は、減っていると信じていた。だが、増えていたのだ。増え続けて、ある数字に達したら、何が起きるのだろう。

私は白いカードをポケットに入れ、懐中電灯も持たずに夜道を歩いた。〇〇店の前に行くと、三つの電話ボックスがまだ並んでいる。右側。扉は変わらず、取っ手の冷たさも変わらない。中に入ると、床にまた白いカード。『黄いろい橋のたもと』。私はそれを拾い、ポケットへ。橋へ向かう。夜気は生暖かく、遠くで犬が鳴く。橋のたもとにも、白いカードは待っていた。『ゲームの音が煮える場所』。私はそれを拾い、また歩く。残り度数は、もう数えなかった。穴は数えるたびに増え、私の指の腹に冷たくはり付く。やがて、私は昔のボウリング場へ辿り着く。建物は閉鎖され、ガラスは曇り、入口には鎖が巻かれている。だが、薄暗いロビーの隅に、電話ボックスだけが生き残り、灯りをともしていた。扉を開ける。床。白いカード。『駅の裏の裏』。

私は歩き続けた。夜は深まり、道は空いた。どのボックスにも白いカードがあり、どのカードにも青い文字があり、私はそれを拾い続けた。文字は次第に具体性を失い、『裏の裏のさらに裏』『最後のひとつ手前』『いちばんはじ』といった抽象の輪郭だけが濃くなっていく。穴は指でなぞるたびにふくらみ、カードは少し重くなる。重さは紙ではない。声の重さだ。耳の中で、受話器の無音が泡立ち始めた。

気がつくと、私は自分の家の前に立っていた。古い家、取り壊す予定の家。門柱の影に、小さな電話ボックスがひとつだけ残っている。記憶が否定する。こんな場所に電話ボックスはなかったはずだ、と心が抗う。だが、そこにある。扉は少しひしゃげ、取っ手には私の手の形が鮮明に馴染む。中に入る。蛍光灯が点る。床には白いカードが一枚、表をこちらに向けて落ちていた。拾う。青い字。『ここより右』。

右を見ると、鏡があった。電話ボックスの内壁の一面に、昔は貼られていなかった鏡。私はその中の自分と目を合わせた。瞳の奥で穴が増える音がする。鏡の下の受話器が、ぶらりと揺れた。私は受話器を取った。耳に当てる。無音。けれど、無音の奥に、子どもの息が潜んでいる気配。私は口を開き、喉の奥からかすれた声を押し出した。『聞こえるか』

返事はなかった。代わりに、白いカードの裏から、文字がじわりと浮き上がった。表とは別の青だ。『ずっと拾ってくれてありがとう』と読める。私は指が震え、カードを握り直そうとして落とした。床に落ちる前に、穴が一つ増えた。私はそれを拾い上げ、裏の文字を光に透かした。次に浮かんだのは『これで終わり』の五文字。私は胸の奥に冷たい棘が刺さるのを感じた。

そのとき、鏡の中の私が口を開いた。こちらの私は閉じたままなのに、向こうの唇だけが音もなく動き、青い霧が歯の間から漏れ出した。霧は鏡の内側で渦を巻き、穴の列のように整列し、やがて数字の形に……いや、数字ではなく穴そのものの形に成った。鏡の向こうの私が、指でそれをなぞる。指の動きに合わせて、私の手の中のカードの穴が増えていく。十、十一、十二。私は受話器を落とした。落ちる音はしなかった。代わりに、どこか遠くの電話が一斉に鳴り始めた気がした。鳴っているのに、音はここへ届かない。届かないことで、鳴っているとわかる。

私は一歩、右へ寄った。扉のガラスに、自分の輪郭が斜めに切れた。右側へ、さらに右側へ。そこは、鏡の右の縁。縁には薄い傷が走り、何度も拭かれた痕が白く曇っている。私はその曇りを指で拭い、鏡の右端を押した。鏡が、扉のように開いた。開いた先には、もう一つの電話ボックスが連なっている。見渡す限り、右へ右へ、ガラスの廊下が延びていた。どの床にも白いカード。どの天井にも蛍光灯。私は胸の内で、古い鈴が再び鳴るのを聴いた。

ここで終わらせることもできた。カードを置き、扉を閉め、家へ戻る。だが、私は右へ足を踏み出した。踏み出す瞬間、ポケットの中の白い束が、紙ではなく鍵の束のように重くなった。鍵穴は穴、穴は度数、度数は呼吸。私はゆっくりと息を吸い込み、右の世界へ入っていった。

その後のことを、上手く言葉にできない。右へ進むほど、鏡の世界の私とこちらの私のあいだの区別があやふやになって、どちらが受話器を持っているのか曖昧になった。白いカードは時折、青ではなく煤けた灰色の字を見せた。『いちばんはじ』『ここより右』『戻らないで』。戻らないで、と書かれたカードだけは、穴が増えなかった。私はそれを胸ポケットに差し込んだ。そして、最後の一枚に辿り着いた。無地。何も書かれていない白。穴だけが、数えることを拒むように密集している。私はそれを掲げ、蛍光灯の光に透かした。穴は光ではなく、音を通すために開いているように見えた。耳を近づけると、子どもの笑い声が、薄く、薄く。

私はそこで立ち止まった。『これで終わり』の言葉を思い出したからではない。終わるという言葉には、始まるという別名が付いて回るからだ。私は白い最後のカードを鏡の縁に差し込んだ。すると、鏡はゆっくりと閉じ、私の映像が重なって一人になった。受話器は静かに揺れ、やがて止まった。床には、もう白いカードはなかった。

今、引っ越した先の本棚に、あの箱は置いてある。開けると、使用済みのカードの束の一番上に、無地の白が一枚、いつも載っている。裏には何もない。表にも、もう文字は浮かばない。ただ、ときどき穴が増えている。誰が増やしているのか、私は知らない。ある夜、私は試しに受話器を取り、穴に向かって声を落としてみた。『聞こえるか』と。返事はない。しかし次の朝、白いカードの端に、青い霞が小さく滲んでいた。『ありがとう』にも『さようなら』にも読めない形で。私はそれを見て、箱を閉じた。これは失くせない。失くせないからこそ、いつか私の手をすり抜ける。

あの夏、私は減るものを追いかけているつもりで、実は増えるものに追いかけられていた。度数、声、息、右側。いずれも私の外側にあるようで、最初から私の中に通じていた。だから、どれほど探しても『駅の裏の裏』に辿り着けなかったのだと思う。裏の裏は、いつも今いる場所のすぐ右に生える。右に寄れば、さらに右が現れる。終わりはそこで、終わりではない。

この話を打ち明けると、周囲はしばらく黙り込む。黙り込んだあとで『どうせ拾い集めた子どもの空想だろう』と笑う声もある。それで構わない。空想という言葉は私には『右側』の別名に聞こえる。右側はいつも、言い換えを許す。私は机の引き出しを開け、白い一枚を取り出して光に透かす。穴はまた一つ増えている。どこかで誰かが、電話ボックスの扉を引いたのだろう。あるいは、私が夢の中で。

思い出すたびに、耳の奥で無音が震える。あの震えは、いつかぴたりと止まるのだろうか。止まったとき、世界のどこかの右側で、受話器がひとつ、やっと鳴る気がする。私がそれを取るのか、鏡の向こうの私が取るのか、それは知らない。ただ、鳴る瞬間まで、穴は増え続ける。増えることは、終わらない階段のひとつの呼び名に過ぎない。私はそれに、名前をつけないままでいる。名付けると、右側がひとつ減ってしまいそうだから。

[出典:42 :本当にあった怖い名無し:2010/11/05(金) 14:01:49 ID:U6ZnFbpH0]

Sponsored Link

Sponsored Link

-中編, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚, n+2025

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2025 All Rights Reserved.