これは警備員のアルバイトをしていた頃、職場の先輩から聞いた話だ。
都内のSデパートは縦に長い構造で、巡回ルートも複雑で長い。新人の自分には覚えきれるはずもなく、最初のうちは先輩と一緒に異常確認を回った。
エレベーターや防火シャッターの位置、火元確認のポイントなど、細かく教え込まれた後、ようやく一人で巡回することになる。
婦人服売り場がメインのフロアに差し掛かったとき、先輩が非常階段近くの防火シャッターを指さして言った。
「この警報、死んでるからな」
「故障してるんですか?」と聞くと、先輩は短く「違う」とだけ返した。その言葉の意味を深く考えることもなく、巡回を続けた。
非常階段の近くには女子トイレがあり、不審者が潜みやすい場所なので念入りに確認するのがルールだった。用具入れや個室も確認したが、特に異常はなかった。そのとき、先輩の顔色が悪いことには気づかなかった。
巡回を終えて待機室に戻ったのは深夜3時過ぎ。他の警備員は仮眠に入っていて、室内には自分と先輩の二人だけだった。椅子に腰を下ろすなり、先輩がぼそりと語り始めた。
「あの警報、なんで殺してあるかわかるか?」
「さあ」と答えると、先輩はゆっくりと話し出した。
「あの女子トイレさ、昔事件があったんだよ」
若い女性が妊娠に気づかないまま流産し、胎児をトイレに放置して逃げたという事件だった。清掃員がその遺体を発見し、警察が調査を行ったものの、胎児の身元は判明せず、やがて母親が自首してきたという話だった。以後、婦人服売り場では奇妙な出来事が起きるようになったらしい。
その最初の怪異に遭遇したのは、先輩の友人だった。ある夜、巡回中に女子トイレ前の通路を懐中電灯で照らしていると、マネキンの瞳が動いた。次々と他のマネキンも彼を見据えるように視線を向け、背後のマネキンの視線まで突き刺さるように感じたという。
念仏を唱えながら硬直していると無線が鳴り、「場所○○○発報!」という呼び出しが入った。
警報器が反応したのだ。恐怖を振り切り、警報器のボックスに向かい異常を解除しようとしたが、その途中でマネキンたちが首を動かし、一斉に女子トイレを向いているのを目撃した。その後、彼は無線の再発報に応答できず、しばらく動けなかったという。
その場の状況を察した管理室の同僚たちが駆けつけると、彼は通路の真ん中で汗びっしょりになり、蒼白な顔で立ち尽くしていた。何とか警報を再設定してその場を後にし、待機所に戻ったが、先輩の友人はその夜以降、警備員を辞めてしまった。
その後も婦人服売り場では夜中に警報器が頻繁に発報するため、何度も新品に交換されたが原因は不明のままだった。結局、問題の警報器は「デコイ」──つまり無効化されることになった。
先輩の友人が辞めてから数日後、再び夜警に出たその友人が体験した話も異様だった。
再度女子トイレを巡回した際、今度はマネキンの異常はなく「気のせいだったのか」と思い直した。しかし、女子トイレの鏡に映った用具入れの扉が透けていく様子を目撃してしまう。そこに現れたのは、白く濁った洗面器に溶けかけたような赤ん坊の姿だった。
恐怖のあまり先輩の友人は待機所へ走り帰り、その夜の巡回を放棄した。先輩たちも気味が悪くなり、数人で残りの巡回を済ませたが、友人は翌日を最後に職場を去った。
以降、婦人服売り場のマネキンは瞳のガラスパーツを取り外されるか、撤去されるようになった。また、問題の用具入れには鍵が取り付けられ、警報器も無効化されたまま放置されることになったという。
自分はその話を黙って聞いていたが、「それ以来、もう何も起きないんですよね?」と尋ねた。しかし、先輩は青ざめた顔でこう言った。
「わからない。誰ももう、あの女子トイレをまともに巡回しないからな」
さらに先輩がぽつりと漏らした話によると、自分と巡回したその夜、先輩は女子トイレの鏡に映った無数の子供の手跡を見てしまったという。それらはゆっくりと鏡を這い、映った先輩の方へ向かって伸びてきていたそうだ。
先輩の話はそれきりだったが、自分はその後も婦人服売り場で怪異らしきものに遭遇することはなかった。もっとも、自分もまた、その女子トイレを巡回することは一度もなかったのだが。
(了)
[出典:214 名前:あなたのうしろに名無しさんが…… 投稿日:2001/02/17(土) 00:30]