これは、五年ほど前に体験した話だ。
当時、会社員として忙しく働いていた私は、仕事を終えたあと家に戻るとリビングのソファに寝転び、漫画を読むのがささやかな楽しみだった。その日もいつものように、仕事を終えた足で帰宅し、靴を脱ぐとすぐにリビングへ直行した。まだ外は夕暮れの色を残しており、室内の照明をつけなくても充分に明るかったのを覚えている。
しばらく夢中で漫画のページをめくっていると、二階から「キャハハ」という楽しげな笑い声が聞こえてきた。聞き覚えのある調子だったので、妹が友達を家に呼んでいるのだろうと思った。「またか」と少しだけ面倒に感じつつ、私は漫画に意識を戻した。
だが、その笑い声は徐々にエスカレートしていった。「キャハハ」から「ギャハハハ!」、さらに床を叩く音が加わる。「うるさいなぁ」と苛立ちを覚えつつも、なんとか我慢していたが、その音は次第に常軌を逸していく。やがて、聞き取れる言葉ではなく、動物の断末魔にも似た奇妙な絶叫が混じりはじめた。「ギャヤァアア!ヴヴヴヴ…ひひひひ……!」。床を踏み鳴らす音でリビングの天井の照明が揺れるほどだった。
さすがに堪えきれなくなり、文句を言おうと立ち上がった。「さすがに近所迷惑だろう!」。腹立ちを抑えつつリビングを出て廊下に出たとき、ふと違和感が生じた。
玄関には自分の靴だけがぽつんと置かれている。妹の靴も、友達らしき靴も見当たらない。――あれ、妹も帰っていない? それなら、二階で騒いでいるのは誰だ?
その考えが浮かんだ瞬間、体が硬直した。急に家全体が静まり返り、笑い声も床を叩く音も、すべて消えた。耳が痛くなるほどの沈黙に包まれる中、私は真っ暗な二階を見上げた。階段の先には闇が広がり、妹の部屋の扉がわずかに見える。じっと見つめると、静寂を切り裂くように、どこかで「ギギ……キィィィッ」という微かな音がした。
――妹の部屋の扉が、誰かに開けられている……?
冷たい汗が背中を滑り落ちた。全身が震え、顎が勝手にカタカタと音を立てた。扉の開く音が止むと今度は、「みしっ……みしっ……」という足音が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。階段の上から、何者かが……降りてくる……。
その足音が目の前の階段に迫った瞬間、金縛りが解けたように体の自由が戻り、私は反射的に廊下を駆け出した。リビングに逃げ込み、扉を閉めて電気をつけると、部屋はすっかり暗くなっていた。いつの間にか日は沈んでいたのだ。
震える手でテレビをつけ、大音量で流しながらソファに丸くなって身を潜めた。外から母が帰ってくる音を待つ間、全身がこわばり、汗が滝のように流れた。
あのとき玄関で靴に気づかなかったら、私は二階で何を見てしまったのだろう。そもそも、あの奇妙な笑い声の正体は何だったのか。二階には何がいたのか。
後日、妹が帰宅したときにその話をすると、彼女は激しく怒り出した。そして、それ以来二階の自室には一切近づかなくなった。話を聞く限り、妹の部屋ではそれ以前にも奇妙なことが起きていたらしい。
その部屋にはまだ、何かがいるのだろうか。
(了)
[出典:698 :本当にあった怖い名無し:2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN ID:YdeLNrCQI]