あの話を聞いたのは、駅前のファミレスだった。
サークルの小旅行の日、渋滞で足止めを食らい、僕とYだけが取り残された。新人のYとはそれまでほとんど話したことがなかったが、三十分もすれば妙に気が合った。笑い方が軽く、間の取り方がうまい。どこか飄々としていて、場の空気を読むのがうまい男だった。
仲間から「あと一時間は無理」と連絡が入り、僕らは食事を頼んだ。
Yはメニューを見て、ほとんど迷わず注文した。パスタ、ハンバーグ、唐揚げ、ドリア、サラダ、デザートまで。店員が何度も確認するほどの量だった。
「一人だよな?」
思わず聞くと、Yは笑った。
「平気だよ。最近、腹が減って仕方ないんだ」
料理が並ぶと、彼は本当に一人で食べ始めた。速い。噛んでいるのかどうかもわからない。皿が次々と空になる。痩せ型の体に、その量がどこへ入るのか想像がつかなかった。
ふと、彼が笑ったとき、歯茎のあたりに黒いものが絡んでいるのが見えた。虫歯かと思ったが、違う。細い線のようだった。
「よく太らないな」
そう言うと、Yはフォークを止めた。
「昔は小食だったんだよ。食パン二枚で満腹だった」
「じゃあ今は?」
「きっかけがあった」
彼は水を飲み、少し黙った。
以前付き合っていた彼女の話だった。最初は普通だったが、次第に執着が強くなった。一日に何十通もの連絡。返信が遅れると泣き喚き、怒鳴り、謝罪を要求する。家にいれば、トイレの前で待たれていたという。
二ヶ月ほどで気持ちは冷めた。別れを切り出すと彼女は拒んだが、やがて態度を変えた。束縛は減り、料理が豪華になった。毎日のように手料理を持ってきた。Yはそれを断らなかった。
「味、変だったことはなかったのか」
僕がそう聞くと、Yは首を傾げた。
「たまに、鉄みたいな匂いがした。でも肉のせいだと思ってた」
彼女のほうから別れを告げたのは、その二ヶ月後だった。あまりにあっさりしていて、逆に気味が悪かったという。
一週間後、彼女は死んだ。
遺書にYの名前があり、日記が渡された。そこには毎日の記録が綴られていた。Yへの愛情と憎しみが入り混じった文章。だが、ある日を境に書き方が変わっていた。
「今日は少しだけ入れた」「今日も混ぜた」「もうすぐ全部」
何を、とは書いていなかった。ただ「一緒になれる」「離れない」と繰り返していた。
「入れたって、何を?」
僕が聞くと、Yは肩をすくめた。
「わからない。書いてないんだ。俺も考えないようにしてる」
そのとき、彼は皿のソースを指で拭い、舐めた。皿は空だった。
「でもさ」
Yは笑った。
「別れてからなんだ。腹が減って仕方なくなったのは。どれだけ食べても足りない。食べても食べても、何かが足りない」
彼の歯茎の黒い線が、さっきよりはっきり見えた。細く、湿っていて、動いた気がした。
「気のせいだよな」
僕は視線を逸らした。
やがて仲間たちが到着し、僕らは車に乗り込んだ。Yは後部座席でポテトチップスを開け、無言で食べ続けていた。袋はすぐに空になり、また開ける。助手席に座った僕は、匂いにむせた。油と塩の匂いに混じって、どこか甘いような、生臭いような匂いがあった。
旅行の間、Yは常に何かを口にしていた。宿でも、移動中も。夜中に目を覚ますと、暗闇の中で咀嚼音がした。袋の擦れる音と、低い息。
最終日の朝、バイキング形式の朝食で、彼は皿を何枚も重ねていた。周囲が引くほどの量だった。
「それ、食べきれるのか」
仲間の一人が冗談めかして言うと、Yは首を傾げた。
「俺一人じゃないから」
誰も笑わなかった。
帰りの車内で、Yが後ろから菓子パンを差し出した。
「一口食べる?」
断る理由もなく、僕は受け取った。小さくちぎって口に入れる。普通の味だった。甘く、柔らかい。
その瞬間、喉の奥がわずかに焼けた。鉄の匂いが鼻に抜けた。
「変な味しないか」
思わず聞くと、Yは前を向いたまま言った。
「慣れるよ」
それからだ。
あの日以来、妙に腹が減る。食べても食べても、どこかが空いている。夜中に目が覚めると、無意識に冷蔵庫を開けている。自分の歯茎を舌でなぞると、奥のほうに細いものが触れる気がする。
鏡を見るのは、まだ避けている。
[出典:587 :本当にあった怖い名無し:2006/11/27(月) 22:07:28 ID:27X+4T+D0]