訳がわからない出来事がある。
誰かに説明しても、どうせ信じてもらえない。けれど、ここに書き残しておかないと、自分の存在まで薄れていきそうで怖い。
俺の友人、さいまの話だ。
田舎から上京して四年、俺はフリーターをしながら事業の準備をしていた。今年の三月、声をかけて、さいまが東京に出てきた。高校時代からの親友で、理由も分からないまま「さいま」と呼ばれていた。そう呼ぶと、なぜか皆が笑った。
彼は俺の家から歩いて十分ほどのマンションに住んだ。以前、孤独死があった部屋で、家賃が相場より安かった。初めて内見したとき、畳に塩が撒かれていて、俺と同行した友人は顔色を失ったが、さいまは「安いなら助かる」と即決した。
事業は形にならず、二人で求人誌を眺めては、仕事の話ともつかない雑談をする日々が続いた。それが当たり前の生活だった。
それが、昨日まで。
夜勤がある俺は夕方に眠る。二十時頃、夢の底でガラスを叩く音がした。いつものことだ。インターホンでは起きない俺を、さいまはよくこうして起こしに来た。半分目を開けて、また眠った。
翌朝、バイト帰りに彼のマンションへ行った。インターホンを押しても反応がない。駐輪場にあるはずの自転車もない。三階の部屋を見上げると、カーテンがなく、ベランダも空っぽだった。最初から誰も住んでいなかったような空気だった。
胸の奥が冷えた。昨日まで一緒にコーヒーを飲んでいたはずなのに。
共通の友人に電話した。
「さいまがいなくなった」
返ってきたのは、困ったような笑い声だった。
「さいま?誰だそれ」
他の友人にもかけた。誰一人、彼を知らないと言う。卒業アルバムには、確かに彼の顔がある。それなのに、高校卒業後は誰も会っていないという。
俺の机には証拠が残っている。彼から借りた二千円の借用書。署名入りの契約書。彼宛に届いた書類。着信履歴と、消えていないメール。
それでも、世界のほうが彼を否定している。
不動産会社で部屋のことを尋ねると、担当者は淡々と答えた。
「七月に退去されていますよ」
夜、実家に電話した。母親は「さいまは今も地元で働いている」と言った。翌晩、電話口で本人と話した。昔と変わらない声で、東京に行ったことはないと言った。
何が起きているのか分からなかった。現実感が剥がれ落ち、言葉が詰まり、呼吸が乱れるようになった。
引き出しを開けると、さいまの署名がある。印鑑も、住所も、確かに存在する。それなのに、彼だけがこの世界から抜け落ちている。
昨日、夜勤明けで部屋に戻ったとき、窓ガラスに手形が残っていた。外側ではない。内側だ。
もう誰にも話さない。
俺だけが知っている。
さいまは確かに、この街で俺と一緒に暮らしていた。
それでも世界は、一夜で彼をいなかったことにした。
次に消えるのが、どちらなのか。
考えないようにしても、答えは窓の内側に残っている。
[出典:377 :本当にあった怖い名無し:2007/08/01(水) 10:59:57 ID:k/yPgFRU0]