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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

背中の重み ncw+

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その店は、地下へ続く階段の踊り場に立った時点で、すでに空気が重かった。

酸化した油と、安煙草の煙が混ざり合い、澱のように沈殿している。換気が機能していないというより、ここでは匂いが逃げるという発想自体が存在しないようだった。

四月半ばの金曜日。新入社員の歓迎会という名目で連れてこられたのは、駅前の雑居ビルに入っている大衆居酒屋だった。壁一面に貼られた手書きメニューは、端が反り返り、長年の油と煙で文字が滲んでいる。裸電球の光は黄ばんでいて、照らすというより、空間を濁らせているだけだった。

掘りごたつ式の座敷に通され、私は上座に座らされた。足元のカーペットは、乾いた粘着質を含んでいて、靴下越しに妙な感触が残る。拭かれていない。拭くという行為が、最初から放棄されている床だった。

向かいに座ったのは、三つ年上の先輩社員、蓮見さんだった。週末になると母親と登山に行くという、社内でもよく知られた人だ。明るく、声がよく通る。笑顔の印象しかないはずなのに、その夜の彼女は、どこか薄い膜越しに見えていた。

乾杯の音頭とともに、ジョッキがぶつかる。

カチャン。

その音が耳に届いた瞬間、背骨を冷たいものが走った。

知っている。

硝子が触れ合う、この乾いた音を、私は知っている。

思い出した、というより、被さってきた感覚だった。幼い頃、何度も繰り返し見た、同じ夢。忘れたはずのものではない。しまい込まれていただけのものだ。

色のない街。鉛色の空。石畳を噛み砕く、低く、腹に響く音。巨大な何かが近づいてくる振動。逃げる大人たちの背中と、なぜか高揚した叫び声。そのすべてが、硝子の音一つで、ひび割れた。

「大丈夫?」

蓮見さんがこちらを見て微笑んだ。その顔に、裸電球の光が落ちる。目の周りだけが、異様に暗く見えた。照明のせいだと思おうとしたが、違った。彼女の周囲だけ、光が吸われている。

宴が進むにつれ、店内は騒がしくなった。笑い声、グラスの倒れる音、油の弾ける匂い。私は烏龍茶を頼もうと顔を上げ、ふと向かいを見る。

蓮見さんが、動いていなかった。

正座をしたまま、深く俯いている。箸もグラスも手を付けていない。背筋は不自然なほど真っ直ぐで、身体だけが置き去りにされた人形のようだった。

異様だったのは、彼女の周囲の暗さだ。照明は同じはずなのに、そこだけ夜が一段深い。煙が溜まっているわけでもない。ただ、光が寄り付かない。

声をかけようとした、その時。

ズズズ……。

床からではない。蓮見さんの身体の内側から、重たい音がした。何か巨大なものが、ゆっくりと擦れ合い、位置を変えている音だった。

「蓮見さん」

呼びかけても、反応はない。

隣の同期が私の肩を叩いた。

「どうした?」

「あの人、様子がおかしくない?」

同期は向かいを見て、首を傾げた。

「普通じゃん。飲んでるし」

見えているものが、違う。

そう理解した瞬間、空気の匂いが変わった。油と煙が消え、湿った土と錆びた鉄の匂いが鼻腔に広がる。あの夢の匂いだ。

蓮見さんの頭が、ゆっくりと上がった。

顔は煤にまみれていた。汚れではない。戦場の匂いを孕んだ黒さだった。瞳は焦点を失い、その奥に居酒屋は映っていない。

「……重い」

彼女の唇が動く。

「お母さんが、重いの」

その背後に、もう一つの影が重なっているのが見えた。老婆のような形をした影が、蓮見さんの背中に密着し、離れない。影の背には、巨大な鉄の塊の輪郭が食い込んでいる。

課長が、何も知らずに彼女の肩を叩いた。

その瞬間、蓮見さんの身体が、わずかに沈んだ。

誰も気づかない。誰も見ていない。

彼女は立ち上がり、店を出ていった。足を運ぶたび、床に小さな白い花が咲き、すぐに消える。

私は後を追った。

地下の階段を駆け上がると、夜の空気が肺に入る。外には、黒い足跡が続いていた。駅とは逆、暗い住宅街の方へ。

足跡は、公園で途切れていた。

ブランコが、風もないのに揺れている。

「……誰なの」

闇に向かって、声が漏れた。

背後から、囁きが返る。

「お母さんよ」

振り返ると、蓮見さんが立っていた。いや、蓮見さんだったものだ。二つの身体が、重なり合い、分けられなくなっている。

「重いのが好きなの」

その声を聞いた瞬間、背中に熱が走った。肩甲骨の間に、何かが触れた感触。冷たく、確かな重み。

月曜日の朝、蓮見さんは出社しなかった。

母親と登山中、滑落。二人は一本のザイルで繋がっていた。発見された時、母親は蓮見さんの背中に覆いかぶさる形で固まっていたという。

私は、自分の席に座れなかった。

背中が、重い。

日を追うごとに、その重みははっきりとした形を持ち始めた。夜、鏡を見ると、背中の皮膚が僅かに盛り上がっている。誰かが、そこに腰を下ろしているような隆起だった。

帰り道、私はまた、あの公園に立っていた。

「気づいた?」

耳元で、低い声がした。

その瞬間、理解した。

あの夢の中で、私の上に覆いかぶさっていた重み。守っていたのではない。逃がさないための重さだった。

背中に、腕が回される。

逃げ場は、最初からなかった。

私は立ち上がった。重みは消えない。だが、抗う感覚も消えていた。

人混みの中を歩く。人々が、私を避ける。

足元で、白い花が一つ、咲いた。

私は微笑んで、前を行く誰かの踵に、そっと影を重ねた。

(了)

[出典:298 :名無しさん@おーぷん:19/08/15(木)18:27:39 ID:dtp ×]

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