これは、俺自身の体験じゃない。
ただ、もう長いあいだ、他人事だと言い切れなくなっている。
話の主は、学生時代にいつも一緒に釣りをしていた友人だ。
あの日、俺は現場にはいなかった。途中で車に戻り、ロッドを取りに行っていた。だから決定的な瞬間を見ていない。その事実だけが、今も微妙な逃げ道として残っている。
当時、俺たちはバス釣りに取り憑かれていた。講義を抜け、休みの日はほぼ毎回、竿を担いで川に出ていた。近くには有名な湖があったが、人が多すぎて落ち着かなかった。だからわざわざ、そこに注ぎ込む手前の、川幅の狭い支流を好んでいた。岸から対岸まで、力を入れずにルアーが届く程度の川だ。
バスは川にもいる。流れの緩む場所、橋脚の影、葦が生えているところ。ポイントは限られている。
その日も、俺たちはいつもの川に入った。すでに両岸には釣り人が数人ずついて、無言の了解で距離を保ちながら釣っていた。対岸の正面に人が立たないように注意しつつ、少しずつ場所をずらす。釣り人同士の、あの独特の気遣いだ。
途中で俺は車に戻った。忘れ物をしただけだ。ほんの十分ほどのつもりだった。そのあいだ、友人は一人で釣りを続けていた。
後で聞いた話だ。
彼は釣りに集中するあまり、気づかないうちに対岸の二人組の正面あたりまで進んでしまっていたらしい。気まずさを感じ、引き返そうとした。そのとき、ルアーを水面から引き上げた瞬間だった。
対岸から、突然叫び声が飛んだ。
「うわっ!!」
「おい、足元だ!!」
驚いた声だったが、釣り場では珍しくない。デカい魚でも見つけたのかと思い、友人は水面を覗き込んだ。葦の影、沈み石、流れの淀み。だが、それらしいものは見えない。
次の声は、明らかに様子が違った。
「行くな!!」
「逃げろ!!早く!!」
その言葉を聞いた瞬間、友人の背中に冷たいものが走った。足元、逃げろ。その組み合わせから、真っ先に浮かんだのはマムシだった。
彼は反射的に後ずさりし、土手の上へ駆け上がった。
だが、それだけでは終わらなかった。
対岸にいた二人組までが、道具を放り出すようにして土手に上がり、川を迂回する形でこちらへ走ってきた。顔色は紙のように白く、足元も覚束ない。何かを見た人間の動きだった。
合流するなり、二人は息を切らして叫んだ。
「今の、見たか」
「化けもんだぞ、あれ」
友人は何も見ていない。だから首を振った。すると二人は、ほとんど同時に、彼がさっき立っていた場所を指さした。
葦の手前、水際。まさにルアーを引き上げた位置だ。
そこでは、水面が不自然に盛り上がったという。波ではない。泡でもない。「ボコッ」と、水そのものが押し上げられるように動いた。
その中心から、黒い塊が浮かび上がってきた。
最初は、苔の付いた流木か、ボールのように見えたらしい。だが、それはゆっくりと回転し、形を変えた。
人の顔だった。

長い髪が水に貼りつき、肌の色はわからないほど黒ずんでいた。目だけが白く濁り、水面の上に浮かんでいた。その顔が、岸の方へ、滑るように近づいた。距離にして一メートルもなかったという。
その方向に、友人がいた。
二人は、顔がこちらを向いたと断言した。見られた、そう言った。
次の瞬間、それは音もなく沈んだ。水面は何事もなかったかのように戻り、流れだけが残った。
話し終えると、二人は「もう無理だ」と繰り返し、道具をまとめて引き上げた。東京から来たらしく、そのまま川を離れたという。
俺たちは、何も見ていない。ただ話を聞いただけだ。それなのに、帰り道、車内は異様に静かだった。友人は何度も、靴の裏を気にしていた。何か付いていないか確かめるように。
それ以来、俺たちはその場所に近づかなかった。別の川、別の湖で釣りは続けたが、不思議なことが起きた。
どこへ行っても、足元が気になった。水面よりも、岸際ばかりを見るようになった。ルアーを引き上げる瞬間、必ず一拍、間が空く。無意識に、何かが出てくるのを待っている。
数年後、その川は整備され、有名なバス釣りスポットに注ぐ一級河川の一部になった。人も増え、写真も多く出回った。だが、あの葦の一帯だけは、なぜか誰も立ち込まない。理由を説明できる者はいない。
俺は今でも思う。
あのとき、俺が車に戻っていなかったら。
あの声が、俺の背中に向けられていたら。
そう考えるたび、釣り糸を巻く手が止まる。
水面を覗くとき、反射した自分の顔が、ほんの一瞬、回転して見えることがある。
[出典:630 名前:逝く雄 ◆jan/9fR2 投稿日:02/02/28 10:54]