短編 r+ 怪談

昨日より少し近い rw+9,052

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私が生まれ育ったのは、地図にやっと載るくらいの小さな島だ。

海は澄んでいた。晴れた日なら、岸から覗くだけでずいぶん深いところまで見えた。

ただ、底だけはいつも暗かった。

幼い頃、近所に「神の子」と呼ばれている中学生がいた。

タケ兄ちゃん、と私たちは呼んでいた。

背が高く、日に焼けた、漁師の息子だった。特別なところなど何もない。笑えば歯が白く、子ども相手にも本気で走る、ごく普通の兄ちゃんだった。

けれど島の大人たちは、道でタケ兄ちゃんに会うと足を止めた。

掌を合わせ、一礼する。

タケ兄ちゃんはそのたびに、見ないふりをして通り過ぎていた。

小学一年のある日、私たち三人で遊んでいると、友達のひとりが聞いた。

「タケ兄ちゃんは、なんで拝まれとるん?」

タケ兄ちゃんは一瞬、眉を寄せた。

それから笑うような顔をした。

「ぼうのこと、神さまか何かと勘違いしとる人がおるんや。変な人らや」

それだけだった。

私たちも、それ以上は聞かなかった。

だが家に帰っても気になって、夕飯のとき両親に尋ねた。

父も母も、

「知らん」

と言った。

二人とも箸を止めなかった。

祖父だけが湯呑を置き、少し笑って教えてくれた。

数年前、タケ兄ちゃんは父親の漁について海へ出た。

まだ暗い早朝だったという。

島を離れて間もなく大波に襲われ、船は砕けた。乗っていた十人ほどの漁師は海へ投げ出され、流された末、十キロほど離れた無人島へ漂着した。

全員、生きていた。

湧き水も果実もあったため、そこで一週間をしのぎ、偶然近くを通った砕石運搬船に救助された。

ただ、その無人島にタケ兄ちゃんはいなかった。

父親は、船が壊れてから一度も息子を見ていなかったという。

ところが他の漁師たちは、海の中で妙なものを見ていた。

ある人は、脚にヒレのようなものがついた子どもを見た。

ある人は観音様だったと言った。

人魚に抱えられた、と話した人もいた。

誰も同じものを見ていない。

それなのに、みんな「あれに助けられた」と言ったそうだ。

タケ兄ちゃんの父親だけは、その話を嫌がった。

救助されてからも顔色が悪く、何かを小声で呟き続けていたという。

だが家に戻ると、いなくなったはずの息子が食卓についていた。

タケ兄ちゃんは、漁師たちが救助される三日前に見つかっていた。

島から百キロほど離れた、本土のリゾート地だった。

釣りをしていた中年男性が、海から上がってくる少年を見つけた。

泳いできたのではない。

その男性は警察に、

「歩いて上がってきた」

と話したらしい。

警察が身元を調べ、家族にも連絡したことになっていた。

ところが母親は後になって、

「そんな電話は受けていない」

と言い張った。

では、どうやってタケ兄ちゃんが先に家へ戻っていたのか。

そのあたりを祖父に聞いても、

「さあな」

としか言わなかった。

タケ兄ちゃん自身は、助かった理由を隠していなかった。

「海の底が歩けるようになっとって、歩いてたら陸に着いた」

そう話したという。

「足が重くて寒くて、陸に上がったら動けんようになった」

それだけだった。

事故のあと、タケ兄ちゃんは時々、普段とは違う口調で話すようになったらしい。

私は、その話をずっと大人たちの大げさな噂だと思っていた。

一度だけ、妙なものを見るまでは。

子供会の祭りの帰りだった。

浜辺にタケ兄ちゃんがいた。

沖には小さな孤島があり、その上に古い神社が建っている。島の漁師たちが水難避けを祈る神社で、浜から三百メートルほど離れていた。

タケ兄ちゃんは服を着たまま海へ入った。

私たちは何をしているのかと思って見ていた。

腰まで浸かり、胸まで浸かり、やがて頭まで沈んだ。

そこで普通なら泳ぎ始める。

だが、タケ兄ちゃんの身体は浮いてこなかった。

しばらくすると、少し沖の透明な海の中に人影が見えた。

立っていた。

砂浜を歩くのと同じ速さで、海底を沖へ進んでいた。

途中で一度も浮かばなかった。

そのまま神社のある島の方角へ行き、見えなくなった。

私たちは誰も声を出さなかった。

家に帰ってからも、そのことは親に話さなかった。

なぜ黙っていたのかは覚えていない。

ただ、話してはいけないような気がした。

タケ兄ちゃんは高校生になる頃、島を出た。

その途端だった。

誰も彼の話をしなくなった。

「あの神の子はどうした」と言う者もいなければ、「本土へ行ったらしい」と噂する者もいない。

あれだけ道端で拝んでいた大人たちが、最初からそんな少年などいなかったように暮らしていた。

私もいつしか、口に出さなくなった。

港近くのタバコ屋の老婆だけは違った。

店先を通ると、時々向こうからタケ兄ちゃんの話をした。

彼が島を出て一年もしないうちに、母親は言葉がうまく話せなくなった。

父親は漁の最中、碇の縄に左腕を巻き込まれ、肘から先を失った。

老婆は煙草の煙を吐きながら言った。

「あの夫婦な、息子を神の子に仕立てて、島じゅうから貢ぎ物を集めとったんや」

祈祷までしていたという。

海で死なないように。
船が沈まないように。
魚が獲れるように。

金や魚や酒を受け取り、息子に祈らせた。

それなのに事故に遭った漁師もいた。

「そら、責める者も出るわな」

老婆はそう言って笑った。

私は、では両親に起きたこともそのせいなのか、と聞いた。

老婆は答えなかった。

しばらくしてから、別の話をした。

タケ兄ちゃんが島を出る少し前、同じ夢を見た人が何人もいたという。

夢の中にタケ兄ちゃんが立っていた。

そして、

「私のことは語らないでください」

と言った。

普段の一人称は「ぼう」だったのに、そのときだけ「私」と言ったそうだ。

「さもないと、皆に不幸が訪れます」

同じ夢を見たという者が何人もいた。

その後、両親に不幸が起きた。

だから誰も話さなくなったのだ、と老婆は言った。

「婆ちゃんも、その夢見たん?」

私が聞くと、

「見とらん」

と即答した。

「なら、なんで平気で話すん?」

老婆は笑った。

そのとき何と答えたのか、私は覚えていない。

いや、答えなかったのかもしれない。

それから私は島を出た。

ずいぶん長い間、帰っていない。

老婆がまだ生きているのかも知らない。

確かめるつもりもない。

ただ、ときどき思い出す。

海から歩いて上がってきたタケ兄ちゃん。

三百メートル沖の神社まで、海底を歩いていったタケ兄ちゃん。

そして、あれほど彼を拝んでいたのに、一斉に口を閉ざした島の人たち。

私も長いこと、誰にも話さなかった。

だから今まで気づかなかった。

タケ兄ちゃんは夢の中で、

「島の人には話すな」

とは言っていない。

「私のことは語らないでください」

と言ったのだ。

この話を書き始めてから、昔の海を何度も夢に見る。

澄んだ水の底に、細い道が一本続いている。

その道を、誰かがこちらへ歩いてくる。

まだ顔までは見えない。

けれど今朝は、昨日より少し近かった。

[出典:495 :2016/05/22(日) 20:46:37.96 ID:whQIhQFV0.net]

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