私が生まれ育ったのは、地図にやっと載るくらいの小さな島だ。
海は澄んでいた。晴れた日なら、岸から覗くだけでずいぶん深いところまで見えた。
ただ、底だけはいつも暗かった。
幼い頃、近所に「神の子」と呼ばれている中学生がいた。
タケ兄ちゃん、と私たちは呼んでいた。
背が高く、日に焼けた、漁師の息子だった。特別なところなど何もない。笑えば歯が白く、子ども相手にも本気で走る、ごく普通の兄ちゃんだった。
けれど島の大人たちは、道でタケ兄ちゃんに会うと足を止めた。
掌を合わせ、一礼する。
タケ兄ちゃんはそのたびに、見ないふりをして通り過ぎていた。
小学一年のある日、私たち三人で遊んでいると、友達のひとりが聞いた。
「タケ兄ちゃんは、なんで拝まれとるん?」
タケ兄ちゃんは一瞬、眉を寄せた。
それから笑うような顔をした。
「ぼうのこと、神さまか何かと勘違いしとる人がおるんや。変な人らや」
それだけだった。
私たちも、それ以上は聞かなかった。
だが家に帰っても気になって、夕飯のとき両親に尋ねた。
父も母も、
「知らん」
と言った。
二人とも箸を止めなかった。
祖父だけが湯呑を置き、少し笑って教えてくれた。
数年前、タケ兄ちゃんは父親の漁について海へ出た。
まだ暗い早朝だったという。
島を離れて間もなく大波に襲われ、船は砕けた。乗っていた十人ほどの漁師は海へ投げ出され、流された末、十キロほど離れた無人島へ漂着した。
全員、生きていた。
湧き水も果実もあったため、そこで一週間をしのぎ、偶然近くを通った砕石運搬船に救助された。
ただ、その無人島にタケ兄ちゃんはいなかった。
父親は、船が壊れてから一度も息子を見ていなかったという。
ところが他の漁師たちは、海の中で妙なものを見ていた。
ある人は、脚にヒレのようなものがついた子どもを見た。
ある人は観音様だったと言った。
人魚に抱えられた、と話した人もいた。
誰も同じものを見ていない。
それなのに、みんな「あれに助けられた」と言ったそうだ。
タケ兄ちゃんの父親だけは、その話を嫌がった。
救助されてからも顔色が悪く、何かを小声で呟き続けていたという。
だが家に戻ると、いなくなったはずの息子が食卓についていた。
タケ兄ちゃんは、漁師たちが救助される三日前に見つかっていた。
島から百キロほど離れた、本土のリゾート地だった。
釣りをしていた中年男性が、海から上がってくる少年を見つけた。
泳いできたのではない。
その男性は警察に、
「歩いて上がってきた」
と話したらしい。
警察が身元を調べ、家族にも連絡したことになっていた。
ところが母親は後になって、
「そんな電話は受けていない」
と言い張った。
では、どうやってタケ兄ちゃんが先に家へ戻っていたのか。
そのあたりを祖父に聞いても、
「さあな」
としか言わなかった。
タケ兄ちゃん自身は、助かった理由を隠していなかった。
「海の底が歩けるようになっとって、歩いてたら陸に着いた」
そう話したという。
「足が重くて寒くて、陸に上がったら動けんようになった」
それだけだった。
事故のあと、タケ兄ちゃんは時々、普段とは違う口調で話すようになったらしい。
私は、その話をずっと大人たちの大げさな噂だと思っていた。
一度だけ、妙なものを見るまでは。
子供会の祭りの帰りだった。
浜辺にタケ兄ちゃんがいた。
沖には小さな孤島があり、その上に古い神社が建っている。島の漁師たちが水難避けを祈る神社で、浜から三百メートルほど離れていた。
タケ兄ちゃんは服を着たまま海へ入った。
私たちは何をしているのかと思って見ていた。
腰まで浸かり、胸まで浸かり、やがて頭まで沈んだ。
そこで普通なら泳ぎ始める。
だが、タケ兄ちゃんの身体は浮いてこなかった。
しばらくすると、少し沖の透明な海の中に人影が見えた。
立っていた。
砂浜を歩くのと同じ速さで、海底を沖へ進んでいた。
途中で一度も浮かばなかった。
そのまま神社のある島の方角へ行き、見えなくなった。
私たちは誰も声を出さなかった。
家に帰ってからも、そのことは親に話さなかった。
なぜ黙っていたのかは覚えていない。
ただ、話してはいけないような気がした。

タケ兄ちゃんは高校生になる頃、島を出た。
その途端だった。
誰も彼の話をしなくなった。
「あの神の子はどうした」と言う者もいなければ、「本土へ行ったらしい」と噂する者もいない。
あれだけ道端で拝んでいた大人たちが、最初からそんな少年などいなかったように暮らしていた。
私もいつしか、口に出さなくなった。
港近くのタバコ屋の老婆だけは違った。
店先を通ると、時々向こうからタケ兄ちゃんの話をした。
彼が島を出て一年もしないうちに、母親は言葉がうまく話せなくなった。
父親は漁の最中、碇の縄に左腕を巻き込まれ、肘から先を失った。
老婆は煙草の煙を吐きながら言った。
「あの夫婦な、息子を神の子に仕立てて、島じゅうから貢ぎ物を集めとったんや」
祈祷までしていたという。
海で死なないように。
船が沈まないように。
魚が獲れるように。
金や魚や酒を受け取り、息子に祈らせた。
それなのに事故に遭った漁師もいた。
「そら、責める者も出るわな」
老婆はそう言って笑った。
私は、では両親に起きたこともそのせいなのか、と聞いた。
老婆は答えなかった。
しばらくしてから、別の話をした。
タケ兄ちゃんが島を出る少し前、同じ夢を見た人が何人もいたという。
夢の中にタケ兄ちゃんが立っていた。
そして、
「私のことは語らないでください」
と言った。
普段の一人称は「ぼう」だったのに、そのときだけ「私」と言ったそうだ。
「さもないと、皆に不幸が訪れます」
同じ夢を見たという者が何人もいた。
その後、両親に不幸が起きた。
だから誰も話さなくなったのだ、と老婆は言った。
「婆ちゃんも、その夢見たん?」
私が聞くと、
「見とらん」
と即答した。
「なら、なんで平気で話すん?」
老婆は笑った。
そのとき何と答えたのか、私は覚えていない。
いや、答えなかったのかもしれない。
それから私は島を出た。
ずいぶん長い間、帰っていない。
老婆がまだ生きているのかも知らない。
確かめるつもりもない。
ただ、ときどき思い出す。
海から歩いて上がってきたタケ兄ちゃん。
三百メートル沖の神社まで、海底を歩いていったタケ兄ちゃん。
そして、あれほど彼を拝んでいたのに、一斉に口を閉ざした島の人たち。
私も長いこと、誰にも話さなかった。
だから今まで気づかなかった。
タケ兄ちゃんは夢の中で、
「島の人には話すな」
とは言っていない。
「私のことは語らないでください」
と言ったのだ。
この話を書き始めてから、昔の海を何度も夢に見る。
澄んだ水の底に、細い道が一本続いている。
その道を、誰かがこちらへ歩いてくる。
まだ顔までは見えない。
けれど今朝は、昨日より少し近かった。
[出典:495 :2016/05/22(日) 20:46:37.96 ID:whQIhQFV0.net]