山奥のダムでの夜勤は、最初のうちは楽そうという理由で人気だった。
車はほとんど通らないし、街灯も少ないから星がよく見える。
午前三時、分厚い闇の中を、一台のヘッドライトがこちらに近づいてきた。通り過ぎると思って誘導灯を下ろした瞬間、車が不自然に減速して、俺の目の前で止まった。
運転席から降りてきた中年男は、開口一番こう聞いた。
「ここに、十歳くらいの子どもが通りませんでしたか?」
今でも、雨の匂いがアスファルトから立ち上る夜には、あのダムサイトの湿った空気を思い出す。
皮膚にまとわりつくような微細な水滴と、古いコンクリートが放つ石灰の臭い。それは記憶の底に沈殿し、ふとした拍子に浮上しては呼吸を浅くする。
二十代の半ば、私は宛てもなく職を転々としていた。その時分に潜り込んだのが、山間部のダム改修工事に伴う夜間交通誘導の仕事だった。
現場は県境の深い山奥である。携帯電話の電波は途切れ、あるのは漆黒の稜線と、それを切り取る水銀灯の寒々しい明かりだけだ。夜の八時から翌朝の五時まで、片側交互通行の信号機がわりに、工事用車両や稀に迷い込む一般車を捌く。もっとも、深夜二時を回れば車など通らない。
私と、相勤者の男――仮に小田としておく――は、ただ闇に向かって赤い誘導灯を垂らしているだけの案山子のようなものだった。
その夜も、空気は重かった。
霧雨が降っていた。音もなく降り注ぐ雨は視界を白い粒子で埋め尽くし、ダム湖の水面を無数の波紋でざわつかせていた。時折、放水ゲートの方角から地響きのような低い唸り声が響く。水の落ちる音だと分かっていても、暗闇の中では巨大な獣が喉を鳴らしているように聞こえた。
小田は軽ワゴンの助手席で眠っていた。六十を過ぎたこの男は、起きている時でさえ生気が薄い。泥のついた作業着に身を包み、キャップを目深に被って滅多に口を利かない。彼が吐き出す紫煙だけが、この場に生きた人間がいる証のようだった。
私は独り、雨合羽のフードを叩く雨音を聞きながら、パイプ椅子に座っていた。足元の安全靴から冷気が這い上がり、爪先の感覚を奪っていく。
暇つぶしに吸おうとした煙草は、湿気ですぐに火が消えた。苛立ちとも不安ともつかない感情が、胃の腑で冷たく渦巻く。
この場所は、何かがおかしい。
具体的な出来事があったわけではない。ただ、背後の原生林から無数の視線が突き刺さっているような感覚が拭えなかった。一度振り返れば、その視線の主と目が合ってしまう気がして、私は頑なにダム湖の方角だけを見つめていた。
異変は、丑三つ時を過ぎた頃に起きた。
カーブの向こう、濡れた山肌を二条の光が舐めた。ヘッドライトだ。
反射的に立ち上がり、誘導灯を構える。こんな時間に、こんな山奥へ来る車など本来あり得ない。工事関係者なら無線が入るはずだ。
現れたのは、泥汚れ一つない黒塗りの高級セダンだった。
場違いな光景だった。私は対向車線を確認するふりをして、車を停止させた。
運転席の窓が音もなく下がる。
冷房の乾いた冷気と共に、微かな革の匂いと柑橘系の整髪料の香りが漂ってきた。山の湿気の中で、その人工的な匂いは異物のようだった。
ハンドルを握っていたのは五十代半ばと思しき男だ。仕立ての良いジャケットに緩んだネクタイ。額には脂汗が滲み、目は落ち着きなく揺れていた。
「あの、すみません」
声は震えていた。
「ここに、十歳くらいの子どもが通りませんでしたか?」
時刻は午前三時を回っている。最寄りの集落までは車で四十分。
「いえ、見ていません」
そう答えると、男はハンドルに額を押し付けるように俯いた。
「そうですか……見ていない……」
それは確認というより、自分に言い聞かせる声だった。
男はそれ以上何も言わず、車を発進させた。
赤いテールランプが霧の中へ溶けるまで、私は動けなかった。
静寂が戻り、再び雨音だけが残った。
私は軽ワゴンを叩き、小田を起こした。
「今の車、見ました?」
小田は眠たげに目を開け、首を振った。
「車なんざ来てねえよ」
濡れた路面には、確かに新しいタイヤ痕が残っていた。
四時を回る頃から、ペタ、ペタ、という音が聞こえ始めた。
ガードレールの向こう、ダム湖の法面からだ。何か重みのあるものが、濡れたコンクリートを踏んでいる音だった。
私は誘導灯を握りしめたが、そこには朝霧と白み始めた空しかなかった。
五時。撤収作業をしながら、法面の縁を見ると、濡れた跡が点々と続いていた。
道路からではなく、湖からこちらへ向かって。
私の椅子のすぐ横で途切れていた。
帰り道、山を下る途中で、廃墟となったリゾートホテルの前を通る。
そのゲート前に、黒いセダンが停まっていた。
軽ワゴンを横に寄せると、運転席は無人だった。
シートは水を吸ったように濡れ、ダッシュボードには片方だけの子供用の靴が置かれていた。
後部座席のドアは半開きで、そこから黒い水が滴っていた。
見上げると、廃墟の上階に人影があった。
ぶら下がる男の足元に、黄色いパジャマの子どもがしがみついている。
小田が急発進し、車は霧の中へ突っ込んだ。
それ以来、私はその仕事を辞めた。
雨の夜、車を運転していると、無意識に後部座席を確かめてしまう。
いるはずがないと、確かめるために。
昨日、洗車中に気づいた。
トランクの内側に、小さな手形が無数についていた。
雨の匂いがする。
また、誰かが窓を叩いている。
黄色いパジャマの子が、何かを取りに来た気がしてならない。
[出典:132: 名無しさん@おーぷん:19/01/05(土)03:57:28 ID:9lN]